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馬場ヶ谷といわれてもどこにあるのか、どんな史跡なのか、分からない方がほとんどだと思います。私もつい最近知った地名。江ノ電極楽寺駅から稲村ケ崎小学校に歩き、小学校の三叉路を右に曲がれば馬場ヶ谷です。道なりに歩けば長谷配水地を通って、大仏坂ハイキングコースを経て源氏山から化粧坂に抜けられます。また馬場ヶ谷の中央あたりから左の小道を上ったところに「一升桝遺跡」という国指定の史跡がありますが、この説明は別の機会にします。
この馬場ヶ谷。『かまくらこども風土記』によれば、極楽寺の忍性が病気が治った馬の調教のために使ったとか、武士が馬術の稽古をした場所とか伝わっています。忍性は1298年に「坂ノ下馬病屋」を建てたという記録がありますし、また鎌倉幕府六代将軍である宗尊親王が、北条長時や時頼を連れてこの馬場にきて笠懸や小笠懸を見物したという話も残っています。
そしてもう一つ。先日、古本屋で”『とはずがたり』の鎌倉”(鈴木良昭著)という本を見つけました。なんでこの本を持ち出したかといいますと、以前このブログにも載せた「『とはずがたり』の作者は極楽寺から、どのルートで鎌倉入りしたか?」につき、著者である鈴木先生は、極楽寺切通しや稲村ケ崎の海岸ルートを通らずに、極楽寺~馬場ヶ谷~大仏坂上尾根道~化粧坂か常盤里道経由で化粧坂を下りたのではないかと書いています。推測するに、鎌倉市街を囲む山々は、今は鬱蒼とした森林となっていますが、鎌倉時代は燃料にするために木は切られ、低木や草が茂る尾根道であったと思われます。高さも最大150mくらい、多くは100m以下の山道なので、女子供でも歩けたのではないでしょうか。
鎌倉時代の人々の生活の記録はほとんどありませんので、実際はどうだったかは、古典の文章から推測するより仕方ありません。私は以前、極楽寺から源氏山まで山道を歩いたことがありますが、下の道を行くより意外に近く感じました。もし鎌倉の尾根道が整備されていたとすれば、『とはずがたり』の作者は尾根筋を通って化粧坂を下りた可能性は十分あります。
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