ケンのブログ

日々の雑感や日記

律法によるのではない信仰によるのである

2018年11月12日 | 日記
曇り空のお天気。
朝はちょっと寒いかなと思う。
こうしてだんだん本格的に冬になっていくと思う。
今日は僕がすんでいる地域の降水確率が
40パーセントになっている。
ちょっとネットでいくつかのサイトを見てみると
降水確率40パーセント以上で傘をもって
でかけるという人が多いらしい。
また、降水確率40パーセントは曇りの予報のなかでもっとも
高い降水確率であるらしい。
いろいろとこういう数字も奥が深いんだなと思う。
僕は考えているときりがないのでとりあえず
降水確率40パーセント以上だと傘を鞄に
入れるようにしている。
しかし、40パーセント以上の降水確率予報が
出たのはちょっと久しぶりだなと思う。

今、来ている市民交流センターに
内閣府のポスターが貼ってある。
セクハラ防止を呼び掛けるポスターだ。
こんな男女のやりとりがそのポスターには記載されている。

「今日の服かわいいね。俺、好みだな」と男性
「関係ないでしょ」と女性
「やせてきれいになったんじゃない」と男性
「そういとこだけ見ているんですね」と女性
これもセクハラ?
セクハラを決めるのはあなたではない。
相手や周囲に配慮した言動を。と。

かつて村上春樹さんが交通標語のセンスのなさには
うんざりするという趣旨のことをエッセイに書いておられた。
春樹さんは特定の交通標語に言及されていたわけではないけれど
例えば交通標語といえばこんなものが思い浮かぶ。

飛び出すな 車は急に止まれない。

せまい日本 そんなに急いでどこへ行く。

などだ。

飛び出すな車は急に止まれないはまだ気にならない。
他方、せまい日本というけれど、実際に地図であちこちを見ていると
日本はかなり広い。
気候的にも北海道は僕が若い頃は亜寒帯と呼ばれていたし
沖縄は亜熱帯だったと記憶している。
せまい日本というのはなんとなく
大きな誤解を誘発する言葉であるように思える。

今日の服かわいいね、俺好みだな というのもちょっと微妙な気がする。

その服かわいいですね。僕そういうの好きです。
と書き改めると別にどうということないようにも思えるし、、、。
あまり、セクハラと言い過ぎると
男はなにも女性にものが言えなくなってしまうようにも思える。
まじめにものを考える男性ほどその傾向が強くなると思う。
いつか、山田征さんというかたの本を読んでいたら
わたしは決まりを作らないから違反者を出すこともありません
という趣旨のことを書いておられた。
それを読んで僕はうーんそういうことなんだなと思った。
パウロが律法からは罪の意識が生まれるだけである
という趣旨のことを書いているけれど
本当に律法という決まりごとにしばられると
また決まりを破ってしまったという罪の意識が
生まれるだけであるよう思える。
だから、律法によるのではない
信仰によるのである、とパウロの言葉は展開する。
言われてみるとその通りだなと思う。