ケンのブログ

日々の雑感や日記

青空一人きり 渚便り

2022年03月11日 | 日記歌入り
新聞の人生案内のコーナーにこんな文章が載っている。

「40代のパート女性。大学生の一人娘は離れて暮らしています。主人は娘が小さいころに亡くなりました。

相談したいのは、自分のことを話せる友人がいないことです。何人か友人が集まればご主人のグチばかり。『もう離婚したい』『死んでくれたらいいのに』などなど。

私は自分のことを話せず、周りから『自分のことを話さない人』と思われています。

以前、親友と思えた人に主人の話をしたら、『私は幸せだから不幸な人の気持ちはわかってあげられない、ごめんね』と言われ、それから連絡はありません。主人のことを話すのはタブーなのかと怖くなり、誰にも話せなくなりました」と。

以前、ある人が、個人個人の相談に乗っていると、結局みんな不幸自慢になってしまう。それがいやで、個人相談はやめました という主旨のことをおっしゃっていた。

幸せ自慢と、不幸自慢はほとんど違いのないものかもしれないと思う。

不幸な話や 幸せな話で盛り上がっても、不幸や幸せの度合いは、ひとり ひとり異なるから、みんなそんな話にどれだけ満足しているかはわからないし。

そんなことを考えていたら、井上陽水さんの「青空一人きり」という歌の歌詞が思い浮かんだ。

こんな歌詞だ。

“”楽しいことなら 何でもやりたい
笑える場所なら 何処へでもゆく
悲しい人とは 会いたくもない
涙の言葉で 濡れたくはない
青空、あの日の 青空、ひとりきり

仲良しこよしは 何だかあやしい
夕焼け小焼けは それより淋しい
一人で見るのが はかない夢なら
二人で見るのは たいくつテレビ
星屑、夜空は 星屑、ひとりきり“”

仲良しこよしはなんだかあやしい というフレーズが最高に素敵だなと思う。

■渚便り
中島みゆきさんの「渚便り」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。

聴いていただければうれしいです。

“”風とたわむれながら カモメが一羽
波から 波のしぶきを 越えて 低く 飛んでゆく“”

カモメが一羽だから、そこに意識がフォーカスされて、情景が生き生きしますね。

↓中島みゆきさんの「渚便り」をカラオケDAMの音源で歌いました。


ほうせんか

2022年03月10日 | 日記歌入り
道をあるいていたら、急に近くを歩いていた女性が連れの人に
「それは こっちべたに あるわ」という声が聞こえてきました。

こっちべた というのは 岐阜県や 愛知県の方言で こちらがわ ということ。

つまり「それは こっちべたに あるわ」で「それはこちら側にあるよ」という意味です。

なつかしい方言だなと思いました。

こっちべた という言い方を実際に耳にするのは本当に僕にとっては何十年ぶりだと思います。

ふるさとの なまりなつかし 停車場の 人ごみの中へ そを聴きに行く 石川啄木

■ほうせんか
中島みゆきさんの「ほうせんか」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。

聴いていただければうれしいです。

「悲しいですね 人は誰にもあした流す涙が見えません」
本当に、先のことはわからないと思います。

でも、希望をもっていきたいと思います。
↓中島みゆきさんの「ほうせんか」をカラオケDAMの音源で歌いました。


十津川警部 インフォームドコンセント

2022年03月09日 | 日記
新聞の川柳にこんなのが出ている。

“”十津川が電車の中で聴く逝去“” 

これを見ると、こういうしのび方をしてもらえるのは芸術家冥利だろうなと思う。

この句を詠んだ人の中では西村京太郎さんと十津川警部の存在がきっと一体になっているのだろうと思う。

僕は、こういう場面に遭遇すると、大指揮者ブルーノワルターが、著書の序文の中に
「ナポレオンは死んだ しかし ベートーヴェンは生きている」と書いたことをいつも思い出す。

ベートーヴェンは生きているというのはもちろん比喩で、その比喩の中身はベートーヴェンの作品は生きているということだけれど。

そのブルーノワルターが残したマーラーの交響曲の録音を、最近 かなりまとめて聴く機会があった。

実際、生前のマーラーと付き合いがあり、マーラーの交響曲を何曲か初演しているブルーノワルター。

そのワルターのマーラーを聴いていると、ワルター自身がマーラーの演奏についてのひとつのロールモデルを残すんだという気概でやっているような感覚に包まれてくる。

それほど、マーラーの音楽に対する慈愛と気概に満ちた演奏であるように僕には思えてくる。

まるで、それがマーラーと実際に交流のあった自分の務めだと思っているかのように、、、。

文化を後世に受け継いでいくということに対する気概はまだまだ、私たちはヨーロッパの人に学ぶ部分が多いように感じる。

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新聞の人生相談のコーナーに40代の女性のこんな文章が載っている。

「(80代で病気の父は)医師から水分摂取を制限され、入浴も短時間にと言われているですが、聞き入れません。

『短時間では体が温まらない』と言うので浴室のリフォームを提案しましたが、それも認めません。

お酒を飲む量はだんだん増えています。私が説得しても聞かず、逆に『もう死んでもいい』と言って薬を飲まないことも。

制限の多い毎日のストレスのためか母に暴言を吐きます。「俺に命令するな 俺が一家の主人だ」と怒りあげく「離婚する」と言い出しました。

介護されないと何もできないことはわかっているので母は我慢していますが、いつか母が壊れてしまいそうです」と。

この文章がどこまで事実を伝えているのかわからないけれど、それを読む限りでは、お父さん息が詰まりそうでかわいそう と思ってしまう。

親子の歴史って、幼少期にまでさかのぼるので、お父さんが娘さんが若いころに許せない一言を言ったとか、そこまで考えているときりがないけれど、、、。

医師から水分摂取を制限され という書き方を見ると、もう医師の言うことが絶対に正しくて、それを守らなければならない という強迫観念的なものを感じてしまう。

こういう医師のアドバイスって大概の場合は 水分は取りすぎない方がいいですよということであって、一日何CC以上取ると必ず死ぬとか また何CC以下では絶対大丈夫とかとうことを言っているわけではないことがほとんどだと思う。

医師の命令は守らなければならないということが先に立ってしまって、お父さんの人権ということを忘れてしまっているように思う。

患者の自己決定権に関してはリスボンという都市で国際的に採択された次のようなものがある。

“”自分で検査や治療などについて、十分な説明を受け理解した上で、自己決定することができます。

患者は自己決定権、すなわち、自分自身について自由に決定を下す権利を有する。医師は患者が下そうとする決定によりどんな結果がもたらされるかについて患者に情報を提供すべきである。

判断能力のある成人患者はいかなる診断手続あるいは治療であれ、それを受ける事を承諾あるいは拒否する権利を有する。“”
https://www.hakuai-hp.jp/outline/rights-obligation/より引用

上に書いてあることを短く要約すれば、患者はインフォームド コンセントの権利を有するということになる。

つまり、判断するために必要な情報を医師から受けたうえで、その治療に納得がいけば受ければいいし、納得がいかなければ拒否すればいい という極めてシンプルな話です。

医師の言うことを聴かなければならないということばかり意識しないで、患者には情報提供を受けたうえて自分で決める権利がある、ということを心にとどめるべきと思う。

これは、医療が進んで多様化したいま、心にとどめておきたい権利だと思う。

話しの飛躍かもしれないけれど、不妊治療までかなり進んでしまった、今、自己決定権ということをひとりひとりが意識しないと、逆に医療に人間が苦しめられるようになってしまうと思うから。







鯉のぼり 仰げば尊し

2022年03月08日 | 日記歌入り
僕の体感温度はあまりあてにならないけれど、ここ2日くらいまた寒さがぶりかえしているように思う。

ここ数日、セーターを着ないで、カッターシャツの上に直接ブルゾンを着ていたけれど、昨日と今日は、またセーターを復活してしまった。

お店に行くと、五月人形が並んでいる。

鯉のぼりは最近、見かけなくなったなと思う。

ただ、人形のメーカーが鯉のぼりのぬいぐるみを作成して商品として展示してある。

なかなか、いいなとは思うけれど、やはり、鯉のぼりは実際に風に吹かれて泳ぐのがいいなと思う。

■仰げば尊し

「仰げば尊し」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。

聴いていただければうれしいです。

声が大きくなりすぎてカラオケ店を追い出されてはいけないと思っていたらブツギレの
歌い方になってしまいました。

大学の卒業式が終わった後の打ち上げて、「ナカシマくん めちゃ大きい声で校歌歌ってたやろ。私の席まで聞こえてたわ」
と僕に言ってきた子がいたことを思い出しました。

僕の時代はまだ、公立の学校でこの歌(仰げば尊し)を歌っていました。

今の時代は、公立の学校でこれを歌うのは難しいかもしれません。

ただ、歌詞を一般的にとらえれば、恩を忘れないことの大切さを歌った歌だと思います。

↓「仰げば尊し」をカラオケDAMの音源で歌いました。


挨拶だけでもしっかりと

2022年03月07日 | 日記
かれこれ5,6年前に、インターネットバンキングでパスワードを3回か4回誤入力したら、サイトを開くことができなくなってしまった。

それで、怖くなって、インターネットバンキングをやめて、必要な場合には銀行の窓口にいくようになった。

ところが、銀行の店員さんは、アプリでするとお待ちいただかなくても大丈夫ですとか、テレビ電話でオペレーターとやり取りすれば、手数料が安くなります とか、そんな類のことばかりおっしゃってくる。

それで、僕は、手数料は支払います、窓口でお願いします と割と強い口調で返すことが多くなってきた。

なんで、こちらが預金者なのに、窓口のお姉さんに頼むからやってください 手数料もはらいますから なんて、いわなければならないのかと思うことが多くなった。

そんな 意地の悪いことを言っていたら銀行の店員も人工知能に仕事を取られるぞと思ったりもした。

気持ちよく仕事を引き受けてもらいたくてわざわざ銀行まで足を運んでいるのに、ほかの方法でやったらもっと安いよ ここだと手数料が かかるけど大丈夫か と実質そんなことを言われると つらい気持ちになることも事実だ。

そんなことを心にとめながら新聞をめくっているとこんな週刊誌の見出しが出ている。

“”預金者を見捨てる銀行。 ネットを使えない高齢者は「客」じゃない。3万人を超える人員削減で支店から銀行員がいなくなる“”と。

週刊誌の見出しって売るために大げさに書くものだと思うことの多い僕だけれど、この銀行に関する見出しは 僕が実体験で感じていたことと同じだ と思って ちょっとぞっとしてしまう。

最近は、ブログなどもまたパソコンから投稿するようになったので、ネットバンキングもまた始められるようにも思うけれど、両親の世代の人の様子を見ていると、自分もおそかれ早かれ また、ネットバンキングなど面倒になるときがくるだろうし。

と思うと暗澹とした気持ちになってくる。

まあ、流れにまかせて考えていきたいと思う。

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新聞の人生相談に、60代の女性からの相談が載っている。

“”長女は40代だけれどまた結婚していない。

長男は結婚したけれど、孫ができて家を建ててほどなく離婚してしまった。

友人の話は 子供や孫の話題が多く、最近 趣味の会からも足が遠のいている“” と。

回答者の方は
“”世間体を気にしすぎかも 自慢してくる人には「いいわねえ」と言っておけばいいのです“”と答えておられる。

もちろん、回答者の方は、新聞紙上の人生相談だから、何か答えなければならないので、世間体を気にしすぎと答えておられる可能性も高いように感じる。

ただ、僕は、友人が子供や孫の話を振ってくるけれど、自分は子供が結婚してなかったりしてそういう話題はつらい というのは、世間体を気にするというのとはちょっと次元が違う悩みのようにも感じる。

それは、人と共通の話題を持てないしんどさというか、どちらかというとそういう種類の悩みであるように思う。

かと言って 僕も、子供が結婚してない 離婚してしまった、それで仲間の話題についていけない という人に何かアドバイスができるわけではない。

ただ、諸行無常 いつまでも同じ状態がずっと続くわけではないから、時が解決するのを辛抱して待つのが基本 とそれしか言えないように思う。

自慢してくる人に 「いいわねえ」と返せる人もいるし そういうのがとても苦手という人もいるし。

天理教の教祖 中山みき さんのお筆先にこんな言葉がある。

“”口先の ついしょばかりは いらぬもの しんの心にまことあるなら“”

と。

ついしょ とうのは追従(ついしょう)のことで、まあ、お世辞とかそういうのに近い意味だと思う。

そういうのが苦手でも 真心があればそれでいい と中山みきさんは 言っておられるわだ。

世間話とか お追従とか そういうのが苦手で無口な人でも ふるまいとか、ものごしとか、そういうもので その人の性格を周りの人は案外わかっている ということもまた事実だということを信じていきたいと思う。

話すことがなかったら、挨拶だけはしっかりと ということを心がけたいと思う。