僕は介護職員である。普段からどこかしらで思っていた事が現実となって表面化した。それは福島の養護老人ホームで入居者が入居者を消火器で殴り殺害したという事件である。
なぜ、そのような事件が起こってしまったのか、僕なりに考えていた事をまとめておこうと思います。
長年住み慣れた家や居住区を離れ、新たな土地へ移る事に抵抗を感じる人は沢山います。認知症を患っていれば感情が行動としてストレートに表れます。また、施設と言う場所は人生の終末期に初めて出合う人々と共に生活をしなければならないということでもあります。
それは、今まで築き上げてきたお付き合いを手放し、一から再構築しなければならないという作業が伴います。もし、その時点で認知症を患っていたならば、個人の意思がくみ取りにくい為、半ば強制的に人間関係の再構築を図らなければならない状況へおかれます。
もともと人付き合いの好きな人ならばよいのですが、心身が衰えてきている所へ人間関係を再構築しなければならない事は想像以上にストレスを与えます。
また、施設は様々な事情を抱えた人が暮らしている場所ですので頭のはっきりした方もいらっしゃいます。
頭のはっきりされた人が寛容な方ばかりならば問題はありませんが、多くの人の場合、どこの誰とも分からない認知症を患っている人の認知症と言う病を認知できません。だから、認知症の人が共同スペースでしかたなく起こしてしまう身勝手な行為を許す事ができません。
そこに力関係が働きます。人は恐怖で威圧する手段を容易に選択するので、共同体での上下関係が作られてしまいます。
それは個室であろうと多床室であろうと共同スペースがある以上同じ結果が生じます。職員はその場を和らげる事は出来ますが、監視員ではないので利用者間のパワーバランスには介入できません。
「そんなばかな。老人だからそんな事はあるまい」。と多くの人は思うかもしれませんが、老人だからという括りが大きな間違いなのです。精神は青年のままで、個人主義のまま歳を重ねてきた人もいるのです。
また、福祉を利用する人が昭和二ケタ世代に移行してきているので介護保険導入時より個人の主張をする人が増加傾向にあります。
僕も最初は、おじいちゃんおばあちゃんは性別を超え丸くて優しいものだと思い込んでいたので大変戸惑いましたが、自身や周りを振り返ると、気持ちだけは若いひとたちがうようよいることに気づきました。(例として、おじちゃん、おばちゃんと言うと眉をひそめる人がそれですね。)つまり、青年も老人も地続きなんですね。
夏目先生は著書の「心」のなかで「精神的に成長しないものはバカだ」。と述べています。僕はこのテクストに出合った時、頭をおもいっきりひっぱたかれたような衝撃を受けました。それ以来「精神的成長とはなんぞや?」と、自身に問い続けていますが、未だに定義づける事ができません。
だから、どうにもならない時、「主の思召しのままに」と唱えたり、または「南無阿弥陀仏」と唱え、他力に任せるしかないと開き直ったりしてしまいます。
話を戻しますね。
サービス提供者として、他者の幸福感を考える時、何が最良であるかを推し量る事が大切なのですが、慈善事業ではないので、出来る事と出来ない事が生じるのです。それは、もともと「家庭」が引き受けていた事を「社会事業」として成り立たせることに無理があり、なんらかのリスクを背負わなければ事業として成り立たすことができないと言う事なのかもしれません。
そのリスクを最小限にするには施設を縮小し、施設が利用者を選べるようになれば良いのだけれど、利益が出にくくなるので多くの事業主の賛同は得られないと思います。
ならば、人の心の成長をじっと待つか、施設がリスクを考えて対応してゆくか、はたまた、次世代の人達は施設を利用しないように健康に心がけてゆくかしないと今よりもっと殺伐とした施設になってしまうかもしれません。
しかし、施設内で殺人事件が起こった以上、この問題は組織運営を総括する厚労省にも責任があると思うので、なんらかの改善に努めてほしいと思うのです。
なぜ、そのような事件が起こってしまったのか、僕なりに考えていた事をまとめておこうと思います。
長年住み慣れた家や居住区を離れ、新たな土地へ移る事に抵抗を感じる人は沢山います。認知症を患っていれば感情が行動としてストレートに表れます。また、施設と言う場所は人生の終末期に初めて出合う人々と共に生活をしなければならないということでもあります。
それは、今まで築き上げてきたお付き合いを手放し、一から再構築しなければならないという作業が伴います。もし、その時点で認知症を患っていたならば、個人の意思がくみ取りにくい為、半ば強制的に人間関係の再構築を図らなければならない状況へおかれます。
もともと人付き合いの好きな人ならばよいのですが、心身が衰えてきている所へ人間関係を再構築しなければならない事は想像以上にストレスを与えます。
また、施設は様々な事情を抱えた人が暮らしている場所ですので頭のはっきりした方もいらっしゃいます。
頭のはっきりされた人が寛容な方ばかりならば問題はありませんが、多くの人の場合、どこの誰とも分からない認知症を患っている人の認知症と言う病を認知できません。だから、認知症の人が共同スペースでしかたなく起こしてしまう身勝手な行為を許す事ができません。
そこに力関係が働きます。人は恐怖で威圧する手段を容易に選択するので、共同体での上下関係が作られてしまいます。
それは個室であろうと多床室であろうと共同スペースがある以上同じ結果が生じます。職員はその場を和らげる事は出来ますが、監視員ではないので利用者間のパワーバランスには介入できません。
「そんなばかな。老人だからそんな事はあるまい」。と多くの人は思うかもしれませんが、老人だからという括りが大きな間違いなのです。精神は青年のままで、個人主義のまま歳を重ねてきた人もいるのです。
また、福祉を利用する人が昭和二ケタ世代に移行してきているので介護保険導入時より個人の主張をする人が増加傾向にあります。
僕も最初は、おじいちゃんおばあちゃんは性別を超え丸くて優しいものだと思い込んでいたので大変戸惑いましたが、自身や周りを振り返ると、気持ちだけは若いひとたちがうようよいることに気づきました。(例として、おじちゃん、おばちゃんと言うと眉をひそめる人がそれですね。)つまり、青年も老人も地続きなんですね。
夏目先生は著書の「心」のなかで「精神的に成長しないものはバカだ」。と述べています。僕はこのテクストに出合った時、頭をおもいっきりひっぱたかれたような衝撃を受けました。それ以来「精神的成長とはなんぞや?」と、自身に問い続けていますが、未だに定義づける事ができません。
だから、どうにもならない時、「主の思召しのままに」と唱えたり、または「南無阿弥陀仏」と唱え、他力に任せるしかないと開き直ったりしてしまいます。
話を戻しますね。
サービス提供者として、他者の幸福感を考える時、何が最良であるかを推し量る事が大切なのですが、慈善事業ではないので、出来る事と出来ない事が生じるのです。それは、もともと「家庭」が引き受けていた事を「社会事業」として成り立たせることに無理があり、なんらかのリスクを背負わなければ事業として成り立たすことができないと言う事なのかもしれません。
そのリスクを最小限にするには施設を縮小し、施設が利用者を選べるようになれば良いのだけれど、利益が出にくくなるので多くの事業主の賛同は得られないと思います。
ならば、人の心の成長をじっと待つか、施設がリスクを考えて対応してゆくか、はたまた、次世代の人達は施設を利用しないように健康に心がけてゆくかしないと今よりもっと殺伐とした施設になってしまうかもしれません。
しかし、施設内で殺人事件が起こった以上、この問題は組織運営を総括する厚労省にも責任があると思うので、なんらかの改善に努めてほしいと思うのです。