硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

「私はシャルリ」は良いのだけれど・・・。

2015-01-14 19:06:05 | 日記
フランスで起こったテロ事件の報道を観ていて思ったことを少しだけ述べておこうと思います。

言論の自由が守られている事は、良いことだと思います。しかし、自由が守られているからといって、言葉や表現を闇雲に垂れ流すのではなく、用いる者が倫理観や道徳観を保っていなければ、本来の意味での言論の自由とはいいがたい。

仮に、新聞を売らねば生活が豊かにならないとか、私の名を世界に轟かせたいという、私的な欲望にかられ、より過激で刺激的な表現を公の場で発表したとするならば、それは表現者としての本質を見失っているように思う。

無神論者であるなら、神だろうと、仏だろうと、預言者であろうと、天使であろうと、自己崇拝者なのであるから、どんな表現を用いても心に痛みを感じないだろう。
しかし、表現者として自負しているならば、心のよりどころとしている人々が大勢いることを考え、表現を自らの意志で抑制せなばならない思う。また、信仰者であったなら、敵対する宗教を表現するのだとしても信仰者として、他者に対してどういう配慮をすべき熟慮すべきであろう。

思想家ならば、歴史を鑑み同じ過ちを繰り返さぬように表現し、先人よりも高い止揚を目指さなければならなぬであろう。

テロを引き起こしている人々は、紀元前から本気であって、その言論や行動は一貫してしているように思うので、ソフィストならば、同じ目線に立たず、どう対峙してゆくべきか考えなければならないと思う。

革命家であるなら、どんな悲惨な結果に終わろうとも、遠慮せずにやりたいことを貫けばよいが、これではテロリストと同質であるように思う。
表現者として表現することは大切であるが、そのことで隣人の命を奪われてしまっては本末転倒である。

しかし、こうも思う。歴史が動いてきた過程もこのような感じで始まっていったのではないだろうかと。

これ以上大きな争いにならないことを祈りたいと思う。