毎週金曜日の夜は仕事を終えると駅前に広がる繁華街の裏通りにある雑居ビルの地下に誰からも気づかれぬかのようにひっそり佇んでいる老舗のバーで少しばかり飲んでから家路に向かうのがいつの頃からか私のルールになっていた。小さいころから気が弱くアルコールが苦手だった私が飲めるようになったのは兵役を終えたころからのように思う。
古びた木製の扉を開けるとグラスを磨いているバーデンダーが此方を見て軽く会釈をし低い通る声で「いらっしゃいませ」と言った。私も軽く会釈してカウンターのいつもの席に腰かけると、バーテンダーに向かって「いつものを」と注文した。客は3人ほどいたが、カウンターの奥にはいつもの老人がウイスキーのロックを傾けていて、私と目が合うと彼も私の事を覚えていたのかこのバーに通い始めてから初めて会釈をされた。老人がカウンターの奥の席で酒を飲んでいたのは客が少ない店であるから早くから気づいていた。しかしそれだけの縁であるからこれまで何も挨拶などしたことがなかった。だからこれも何かの縁なのであろうと思い「どうも」と言って頭を下げた。バーテンダーは手際よく氷の塊をアイスピックで砕いてグラスに入れると「ジョニー・ウォーカー」をゆっくりかつ丁寧に注いでいった。それを見ていた彼は残り少なくなったグラスの酒を飲み干すと「どうだね。いっぱいおごってくれんかね」と私に話しかけてきた。突然の事だったが快く「いいですよ。ジョニーウォーカーでもかまわないですか? 」と聞くと、「かまわんよ。わるいね。」と言って、グラスをバーテンダーに差し出すと少し笑みを浮かべ「すまないね。」と言った。そして、席を立つと「どうだい。一緒に飲まないか? 」と声をかけてきた。私はこの展開にどうしたものかと戸惑ったが無下にする理由もない。「どうぞ」というと彼はゆっくりとした足取りで私の横に腰を掛けた。そして、バーテンダーから差し出されたウイスキーのグラスを左手で持つと「では、遠慮なく」と言って口に含んだ。老人の振る舞いに戸惑いながらも無言でいては居心地が悪いから「いつもあの席で飲んでいるのをお見かけしますが、この店にはいつ頃からきてみえるのですか? 」と尋ねた。すると彼は「そうだなぁ。除隊してからだからもう数十年ということだろうか。」と言うと、初めて言葉を交わす私に向かってこれまでの壮絶な人生を事細かに語った。
それはグラスの氷が溶け落ちるようにゆっくりと、そして繊細に。
私は彼の姿を横目で見ながら話を聞いて初めて彼の身体の異変に気付いた。カウンターに乗せられた右手は全く動かず、薄暗い店内でもいつもサングラスをかけていたのは右目が義眼だったからだった。それが、後方支援だった彼らの部隊が突如戦闘状態に陥った時に負傷したと言っていたその時のものであることは察しがついた。
彼はくたびれたカーキー色のブルゾンの内ポケットからクラシックなスマートフォン型の携帯電話を取り出すとカウンターの上において起動させ、私の方へ押し出すと待ち受け画面を見せて「俺の妻だった女だ。綺麗だろう。ミスキャンパスにも選ばれたことがあるんだぜ。俺の人生で唯一誇れるものがあるとしたら、彼女が俺の妻だったってことぐらいだ。でもな、それもわけのわからん正義という名の戦争ですべてを失ってちまった。」と言って静かに笑った。
「妻だった。」と言ったその意味は問うまいと聞き流したが、彼は携帯電話をひっこめると「戦闘で廃人になって帰ってきた俺に帰るところはなかったがな。」と独り言のように呟いた。
今思えばそれは彼が事細かに語った人生の中にも語りつくせぬ部分があることを示していたのだと思う。そして、私はただ目の前の老人の話を静かに、時頼相槌を打ちながら傾聴するしかなかった。話し終えた老人は枯れかかっている花に水を与えようとするようにグラスを持つと、グラスの中は水だけになっていた。「これじゃあ駄目なんだよ」と言わんばかりの淋しげな表情でグラスを見つめる老人に「どうですか。もう一杯」と聞くと彼はばつが悪そうに「気持ちは嬉しいが、つまらん話まで聞いてくれた上にもう一杯だなんていくらなんでも。」と言って断った。私も彼の気持ちを汲んで「わかりました」と言った。バーテンダーは老人の空いたグラスを下げると、新しいグラスを用意しアイスピックで砕いた氷を慣れた手つきでグラスに入れ、棚の隅から「グレンモーレンジ」を取り出し封を切ると、生まれたばかりの赤ん坊を抱くようにそっと両手でボトルを持ち、店内に流れ始めたビル・エヴァンスが奏でるダニーボーイの裏ビートを取るようなトクットクッという音と共にウイスキーを注いだ。そして、静かにスッと老人の前に差し出すと「これは僕からのおごりです。」と言った。老人はにやりと笑い「すまないね」と言ってまたグラスの酒をあおった。
古びた木製の扉を開けるとグラスを磨いているバーデンダーが此方を見て軽く会釈をし低い通る声で「いらっしゃいませ」と言った。私も軽く会釈してカウンターのいつもの席に腰かけると、バーテンダーに向かって「いつものを」と注文した。客は3人ほどいたが、カウンターの奥にはいつもの老人がウイスキーのロックを傾けていて、私と目が合うと彼も私の事を覚えていたのかこのバーに通い始めてから初めて会釈をされた。老人がカウンターの奥の席で酒を飲んでいたのは客が少ない店であるから早くから気づいていた。しかしそれだけの縁であるからこれまで何も挨拶などしたことがなかった。だからこれも何かの縁なのであろうと思い「どうも」と言って頭を下げた。バーテンダーは手際よく氷の塊をアイスピックで砕いてグラスに入れると「ジョニー・ウォーカー」をゆっくりかつ丁寧に注いでいった。それを見ていた彼は残り少なくなったグラスの酒を飲み干すと「どうだね。いっぱいおごってくれんかね」と私に話しかけてきた。突然の事だったが快く「いいですよ。ジョニーウォーカーでもかまわないですか? 」と聞くと、「かまわんよ。わるいね。」と言って、グラスをバーテンダーに差し出すと少し笑みを浮かべ「すまないね。」と言った。そして、席を立つと「どうだい。一緒に飲まないか? 」と声をかけてきた。私はこの展開にどうしたものかと戸惑ったが無下にする理由もない。「どうぞ」というと彼はゆっくりとした足取りで私の横に腰を掛けた。そして、バーテンダーから差し出されたウイスキーのグラスを左手で持つと「では、遠慮なく」と言って口に含んだ。老人の振る舞いに戸惑いながらも無言でいては居心地が悪いから「いつもあの席で飲んでいるのをお見かけしますが、この店にはいつ頃からきてみえるのですか? 」と尋ねた。すると彼は「そうだなぁ。除隊してからだからもう数十年ということだろうか。」と言うと、初めて言葉を交わす私に向かってこれまでの壮絶な人生を事細かに語った。
それはグラスの氷が溶け落ちるようにゆっくりと、そして繊細に。
私は彼の姿を横目で見ながら話を聞いて初めて彼の身体の異変に気付いた。カウンターに乗せられた右手は全く動かず、薄暗い店内でもいつもサングラスをかけていたのは右目が義眼だったからだった。それが、後方支援だった彼らの部隊が突如戦闘状態に陥った時に負傷したと言っていたその時のものであることは察しがついた。
彼はくたびれたカーキー色のブルゾンの内ポケットからクラシックなスマートフォン型の携帯電話を取り出すとカウンターの上において起動させ、私の方へ押し出すと待ち受け画面を見せて「俺の妻だった女だ。綺麗だろう。ミスキャンパスにも選ばれたことがあるんだぜ。俺の人生で唯一誇れるものがあるとしたら、彼女が俺の妻だったってことぐらいだ。でもな、それもわけのわからん正義という名の戦争ですべてを失ってちまった。」と言って静かに笑った。
「妻だった。」と言ったその意味は問うまいと聞き流したが、彼は携帯電話をひっこめると「戦闘で廃人になって帰ってきた俺に帰るところはなかったがな。」と独り言のように呟いた。
今思えばそれは彼が事細かに語った人生の中にも語りつくせぬ部分があることを示していたのだと思う。そして、私はただ目の前の老人の話を静かに、時頼相槌を打ちながら傾聴するしかなかった。話し終えた老人は枯れかかっている花に水を与えようとするようにグラスを持つと、グラスの中は水だけになっていた。「これじゃあ駄目なんだよ」と言わんばかりの淋しげな表情でグラスを見つめる老人に「どうですか。もう一杯」と聞くと彼はばつが悪そうに「気持ちは嬉しいが、つまらん話まで聞いてくれた上にもう一杯だなんていくらなんでも。」と言って断った。私も彼の気持ちを汲んで「わかりました」と言った。バーテンダーは老人の空いたグラスを下げると、新しいグラスを用意しアイスピックで砕いた氷を慣れた手つきでグラスに入れ、棚の隅から「グレンモーレンジ」を取り出し封を切ると、生まれたばかりの赤ん坊を抱くようにそっと両手でボトルを持ち、店内に流れ始めたビル・エヴァンスが奏でるダニーボーイの裏ビートを取るようなトクットクッという音と共にウイスキーを注いだ。そして、静かにスッと老人の前に差し出すと「これは僕からのおごりです。」と言った。老人はにやりと笑い「すまないね」と言ってまたグラスの酒をあおった。