かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

昭和56年(1981年)ごろのアメリカ

2015-05-10 | 気ままなる日々の記録

敗戦後日本に乗り込んできたマッカーサー将軍を最高司令官とするアメリカ占領軍は、日本をどのようにして、忠実なアメリカの同盟国にするか大いに考えて占領政策を実施した。

 その背景には第一次世界大戦でイギリスは勝利したのにドイツの占領政策を失敗したと云う大きな教訓があった。ドイツは敗戦後わずかな期間にヒットラーを担ぎ出し再び英米仏と戦う国になってしまったからだ。アメリカの占領政策の柱は憲法の押し付けと教育改革であった。教科書に墨を塗った記憶のある人も少なくなったがもう一つが新制中学の新設と義務化であった。全国土が空襲によって焼け野原になっていたところへ、3年間の中学の新設を地方自治体に押し付けたわけだから当時の村長さんや町長さんの苦労は並大抵でなかったと思われます。米国は、この新制中学のすべての教育活動を通して、「忠君愛国」や論語的な「忠や孝」を中心とした従来の教育を粉砕して米国流民主主義教育を徹底して、それらを身に着けた社会人を世に送り出そうとした。

 この占領政策は大成功をおさめ、その弊害は今日にまで及んでいる「自己の欲望を最優先させ「公」の視点を欠いた生徒の続出と、嘘で塗り固められた言動の横行である。

 前置きが長くなりましたが、ここに、公立学校の宿命が見えています。教育勅語の場合も、戦前の小学校改革の場合も、アメリカの教育支配の場合も、国家の方が社会改革のために、ある種の人材を社会に送り込んで彼らをリーダーに育てて、社会を自分の思う方向へ持っていこうとする意図を学校が背負っているという宿命です。

 ところが昭和56年ごろから初めて社会の方が学校に改革を迫り学校が自己改革をしなければ存続が危ぶまれるという状況が生まれてきました。具体的には「登校拒否」とか「不登校」と云う生徒の出現と増加でした。

 経済的な理由ではなく、生徒たちが育ってきた生活空間と学校に漂っている学校空間の間に越えがたい断層があるために生じてきた現象でした。

 これに気づいた行政当局は「個性尊重」とか「選択幅の拡大」などという対策を立てますが、教員サイドにはそれを受け止めるだけの柔軟性がありません。教育とは何かを「押し付けること」と思っているからです。そこで、行政当局は生徒の個性が最も尊重されているアメリカの学校制度を教員に見学させるという政策を断行します。文部省は小、中、高の教員を米・英・独・仏等の国へ「教育視察」に派遣する事業をスタートさせ、これに呼応して各県の教育委員会もそれぞれ独自に「教育視察事業」を開始しました。

昭和56年春オソマツ君は、愛知県教育委員会が主催する海外教育事情視察研修アメリカ西部班のメンバーにに選ばれ10月初旬から4週間の出張を命じられました。勿論事前研修という名目で、夏休み中とか、9月の土曜日の午後に名古屋の小学校に呼び出され、いろいろな打ち合わせや準備があった。班長さんは小学校の校長先生で、自己負担金はどれだけ増えてもよいが、とにかく安全に全員が帰国できるようにと考えられるお方でまるで、宇宙旅行にでかけるかのような緊張感を漲らせておられた。旅行中の添乗員兼通訳は交通公社の人だったが、学校訪問の時の通訳は、教育用語に自信がないので、できないということで、サンフランシスコの日本人協会に依頼してつうやくをしょうかいしてもらうことになりました。費用は勿論自己負担で。交通公社の添乗員が最初に注意したことは

①レストランで何かを注文して支払いをするときは必ず伝票を確認すること。注文していないものが記入されていることがあるから。そういう時は必ずこれは注文していないということ。というものだった。これは、レストランのウエイターが記入すべき伝票を間違えて関係ない人の伝票に記入するからだそうだ。伝票は通常客の椅子の背中のポケットに入れられているが、間違って注文した人以外の人の伝票に記入するのだそうだ。全く信じられない間違いだが、それだけ、従業員の質が劣化しているということのようだった。同じように

②支払いでお釣りをもらうとき、レジのデスクの上につり銭が全部そろうまで、手を出さないということだった。紙幣だけをポケットに入れたりすると、お釣りを出したか出していないかでもめるという。何しろいくらお釣りを出すべきかの暗算がトンとできない。それですぐにパニックになるということだった。僕らはそれにも呆れた。

③アメリカ人は先ず約束の時間が守れない。15分ぐらい遅れることは常識で、決して腹を立ててはいけない、ということだった。サンフランシスコで、市の教育委員会が推薦してくれた小学校や中学校を見学し、続いてアイオワ州のデモインと云う都市に飛びそこでも、小学校中学校、高等学校を見学した。ところがアメリカは当時から週休2日制で土日は、予定が無しになる。そこで、国立公園のヨセミテのブライダル・ベール・ホールを見に出かけたり、ロサンゼルスのデズニー・ランドへ行ったり、ナイアガラ・ホールへも出かけたりした。移動は殆どが飛行機で、早朝とか、深夜の飛行機は運賃が驚くほど安くなる。そこで、我々は殆ど早朝の飛行機に乗った。

 訪問した高校では徹底した選択性が導入されていて、1時間目から、温水プールで泳いでいる高校生を見て、腰を抜かした。当時の日本の高校では1~2時間目は普通教科を入れて、猛勉強させていた。アメリカの北部の10月はもうずいぶん寒い。そんな季節に温水プールが各高校に備えられていて朝から学生が笑いながら水泳をしているということが、どんなに贅沢な事かと思えてならなかった。

 これでは、お釣りの計算もできなければ、伝票の間違いも起こると納得した。学校が「集中力を高める」訓練を全然しない、嫌なことはしなくていいという空間になっていると。思えてならなかった。困難に立ち向かった時に如何に科学的・合理的に取り組むかを学ぶ場が学校であるべきである。また、嘘を云わない、約束は守る、陰口を云わないなど、紳士としてのマナーも学校で学ぶべきである。これがオソマツ君たちの一致した見解であった。

 添乗員は、いつもフライト&レンタルで、飛行場に着くと、すぐにワンボックスカーをレンタルして我々全員を車に乗せて目的地に向かっていた。つまり、彼のそばにいつも車があった。そうでないと、動きが取れないのもアメリカである。

 ところがデモインでは、我々のために女の教頭先生が車を出して道案内をしてくれることになり、メンバーの半分はその教頭先生の車に乗らなければならないことになった。

 さあ、誰が教頭先生の車に乗るか、希望者はゼロ。そこでじゃんけんをして別れることになった。

 次は誰が助手席に座るか、これもジャンケン。オソマツ君は2度とも負けて助手席へ。この女教頭先生がオシャベリで、盛んに話しかけてくる。目的地を二つ言って、どちらに行きたいか、訊いてくる。残りのメンバーに通訳してどちらかに決めておねがいする。添乗員は付いてくるからこれで全員の行先が決まる。責任を感じたオソマツ君は必死に説明を求め、聞き返して、メンバーに伝えた。その度に、「英語が下手で申し訳ないが……と云っては聞き返したり、言い直したりしていた。そうしたら、ついに、女の教頭先生が強い口調で注意した・「私は、日本語がわからないけれども、貴方に謝らないよ。だから、あなたもも謝る必要はないというのだ。オソマツ君は「アリガトウ!」と云ったが、これは、ショックだった。その時初めてアメリカはいい国だと思った。

こうして、実現したのが

 ①コンバインでトウモロコシを収穫中の青年へのインタビューであったし、

 ②標準的と思われる農家への訪問であった。

 ①アイオワは大平原で、土はいい砂地である。何しろトルネードで有名である。晩秋によく大きな竜巻がこの地方で発生する。車に乗っていても車ごと持ち上げられ、やがて地面に落とされるから危険である。道路のわきに頑丈なコンクリートで作られた避難壕がある、

 とにかくここへ潜り込んで手すりに捕まって、身を潜めていることである。農道で区切られた一枚の畑は、縦が300m横が200mぐらいあって、とにかく広い。ここに。

 トウモロコシが作付されていた。トウモロコシの出来は良くない。

 コンバインに似た機械はトウモロコシを根元から刈取り砕いて実を取り出し、ビニールの袋へ詰めていく。残りの葉や茎は粉々にして畑に戻してゆく。

 ①農作業中の青年は、運転席でコーヒーを淹れてサンドイッチか何か食べながらジャズか何かを聴いてい体を動かしている。彼はコンバインをUターンさせるときだけ忙しい。後は少しアクセルを踏み込んで直進するようにハンドルを握っていれば300mは直進でよい。

 この畑を済ませるのにもう1日要るだろうと云っていた。此処のトウモロコシが、家畜の餌として世界に輸出されている。

 ②教頭先生の車がある農家に入っていった。車が止まると、どこからか大きな犬が十数匹出てきて車を取り囲んで吠えかかる。とても車から出られる状況ではない。犬の鳴き声を聞いて、農家のアルミサッシが10センチほど開いてお婆さんが顔を出す、教頭先生が顔をだし何か言われた。お婆さんが犬たちに向かって何か言うと犬は急におとなしくなって僕たちをとおまきにしている。お婆さんが出てきて、倉庫や工作機械が置かれた建物の中を見せてくれた。日本の鋸屋根の工場より個々の農家の方が広い。各種の機械が置かれ、収穫したトウモロコシの袋がつみあげられている。この地方の冬は北極並みの寒さだという。そこで。

 この辺の農家はみなフロリダの方に別荘を持っていて犬も連れて全員で春までフロリダで過ごすという。

 フロリダの小学校は冬の間生徒数が倍増するというのだ。アイオワのトウモロコシは日本にも沢山輸出されていて日本で、鶏卵や牛乳になっている。蛇足ですが、アームの長さが3~50メートほどあるかと思われるスプリンクラーが水を吹き出しながらゆっくり回転しているのもアイオワの名物です。アメリカの国内線でここを通るとき飛行機の窓から下を見ると大きな円内に散水されている光景を見ることができます。しかし、10平米あたりのトウモロコシの収穫高は予想以上に少ないと思われます。かりに、此処を日本人が作付したら収穫高は倍増すること間違いなしです。日本人は農作物の声を聴きながら耕作しますから農作物の生育状態が違います。まあ日本人が農耕民族ならアメリカ人は狩猟民族です。先述の農家の犬たちのことですが、教頭先生のお話によると、お婆さんが「かかれ!」というと一斉に向かってきて、どんな泥棒さんも、強盗さんもたちどころにやられてしまうそうです。

 それにしてもTPPの交渉の行方が気になるところです。

     「薔薇深しピアノ聞ゆ薄月夜《正岡子規》」の季節になりました。

         (バラ フカシ ピアノ きこゆ うす づきよ)

 

 

 

 

 

 

 


母の日

2015-05-10 | 気ままなる日々の記録

 5月の第二日曜日は。母の日です。例年家内のところへは息子夫婦から花が,娘からはメールか電話がかかります。

 息子夫婦からの贈物は家内の好みの色や種類をよく知っていてバイオレット色のカラーの鉢植えや小さい花々のフローズンフラワーだったりします。
今年は珍しいスタンディングブーケが届きました。下の方の花瓶
にあたる部分にはゼリー状のものが入っており水の追加は不要と云う新しい優れものでした。
オーナメントには、イチゴが数個ぶら下がっています。
何と心憎いほどの贈物。

   


 今年は30年来行ってきたイチゴの作付を家内が断念していたのです。話した訳けでもないのに、ちゃんと、イチゴの付いたブーケが贈られて来ました。

娘には時々冗談めかして「花より団子」と申しているようですが、今年になって、やっと、ヘヤ―・アクセサリーがメールに追加されたと云っていました。

何であっても子供や孫からのプレゼントは心を和ませてくれます。感謝感謝です。