僕の家の《母屋》の東側に《こーえ》と呼んでいた8畳と6畳の二間と台所が付いたいえがある。昔藤沢周平の時代小説を読んでいたら「小家」と云うのが出てきてハッとした。藤沢の小説では「こーえ」は『隠居部屋』であった。親夫婦が長男夫婦に家督を譲った後「こーえに」移る。三度の食事は母屋へ出向いてちょうなん夫婦と一緒に取るが、老夫婦への客人が来た時などは直接「こーえ」に通し
そこでお茶を出したりするし老夫婦で少しお酒を飲んだり夜食をするときなどには、煮炊きもする。
わがやの「こーえ」もそれであったかといたく感動したことを良く覚えている。
ところで、この「こーえ」で雨漏りが見つかったときには悩んだ。
本格的に修理するにしては中にあるものがオソマツでそれほどお金をかけて大切にすべきものか疑問がのこったが、雨漏りを放置して屋根が抜けるのを見るのも切ない。
そこで、とりあえず中にあるものを全部外へ出して保存と廃棄に分類することにした。
勿論それさえも大変な作業量で分厚いマスクを付けて、慎重に作業を進めた。
そこで見つけて大切にしたものは数冊の大福帳であった。
「大福帳」というのは和紙を二つ折りにして一方を麻糸で綴じた縦40㎝横10㎝厚さ7~8センチくらいのメモ帳である。
お盆や正月の4・5日前になると小作の人が米俵を荷車に積んで我が家に運び込む。
すると祖父が出てきて荷物を送るときに着けるエフを俵に付けて○○殿と書いて俵につけてゆく。
その後小作の人が家の蔵にその俵を運び込む。祖父は俵を並べる位置を指図して、キチンと積ませる。そのあと小作の人が持ってきた大福帳に○月○日○何俵正に受け取り候と筆で書く。
これが「年貢納めの日」であった」小作の人は「来年もよろしくお願いします」と云い、祖父は「先日の台風がそれて良かった」などと云う事を云っていた。
ところで「こーえ」のことであるが、相当古く何が書いてありかサッパリ読めない「大福帳」が出てきて困った末、江南市歴史民俗資料館に持ち込みこれは価値がある書類かどうか調べて貰った。
数日後犬山にこうした古文書が読める先生がお見えとかで読んでいただいたら「慶事贈答控え」だそうで、
香典帳はよくあるが、「慶事贈答控え』は非常に珍しく江戸末期尾張の農民の祝い事の折の贈り物がどのようになされていたかを知るうえで貴重な資料だという。
そこで。市の資料館の耐火金庫に入れて名古屋大学に持ち込んで、和紙を食べる虫が発生しないように煙で消毒・保存し概要をインターネットで公開し研究者に開放したいというので「承知して」その大福帳を市に寄贈した形になっている。
之も僕が死ぬと何のことかサッパリ分からなくなっ てしまうのでこのブログに書いて息子や娘に伝えることにした。
毎日に追われていて、思いついたときにやっておかないとすぐ忘れてしまう。そういえば同じ「こーえ」から錆びた短い日本刀や槍も出てきた。農民一揆の時これを持って武士たちと戦ったのかと思うと胸が熱くなったことを覚えている。さてあの刀と槍はどこへやったかなあ。母屋の2階のどこかに転がっていると思うが定かでない。
鯉がみられるはすいけ