雨ニモマケズ 風ニモ負ケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケヌ 丈夫ナ体ヲモチ
欲ハナク 決シテ瞋ラズ イツモ シヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ際の林ニイテ 東ニ病気ノ子ガアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母有レバ行ッテ 稲ノ束ヲ負イ 南ニ死ニソウナ人ァレバ 行ッテ
怖ガラナクテイイト云イ 北ニケンカヤ訴訟ガアレバ ツマラナイカラヤメロト
イヒ ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ 寒サ ノ 夏ハ オロオロ ァルキ
ミンナ ニ デクノボー ト ヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
ソウユウモノニ ワタシハ ナリタイ。
読み返せば押さえるところは、全て押さえてある。無欲を装いながら、随分欲張りだと云えなくもない。
ただオソマツ君が小学校でこの詩を習った時には文部省が「玄米四合と」と云うところを「玄米三合と」に改めて教科書に載せたそうだ。
当時の我が国は食糧難で配給が大人一日二合五勺しかなかったそうで。国民は一日四合もお米があれば、贅沢だと云いそうな状況だったからだそうで、そのことは、翌年先生から教えて頂いた。
何しろ教科書に墨を塗った時代である。アメリカ占領軍から食糧援助を受けていた時代である。
我が家は田舎で少し田畑を耕していたのでお米は無かったが、
サツマイモやカボチャは沢山あって、鶏も飼っていたので、
動物性たんぱく質は鶏卵と鶏肉で十分摂取できていた。
毎年12羽くらい、雛から育てていた。兎を育てていた時代もあった。
その時兎の餌となる上質な草を刈り取って来るのは子供の仕事であった。
だから、家族の食糧はタンパク質も含めて自給自足であった。
当時としては、ァリガタイことであった。
当時は結核が不治の病であって、若い人が咳をしながら、
ふらふら歩いていたものだ。彼らは死を待つのみと云う状態だった。
子ども達は結核の人の横を通るときは息を止めて走って通り過ぎたものだ。
思えば大変な時代であった。そんな状態で戦争など始めていたのだか
ら、我が国は、よほど、いい指導者を選ぶ力の乏しい国であったと云えよう。
(T)