かわずの呟き

ヒキガエルになるかアマガエルなるか、それは定かでないが、日々思いついたことを、書きつけてみようと思う

熊野古道(伊勢路)へ行って来ました。(その1)

2011-05-27 | 

 旧友たちと一泊二日で熊野古道(伊勢路)へ行って来ました。このグループは、かつては、日本百名山を全て踏破した豪傑をリーダーに、春と秋はトレーニングと称してトレッキングを、夏は何が何でも3000mを超えていることを条件に山歩きを楽しんできた仲間です。でも、自然の摂理というか、寄る年波には勝てず、もう山登りはダメだというものが徐々に増え、まだ健脚を誇っている仲間には申し訳ないが、最近は古寺や古道をハイキングするプランばかりになって来ました。私ももちろんダメな口で、高い山だったら「不参加」としていました。

 今回のプランは歴史好きなSさんが計画、「熊野古道(伊勢路)と古事記ゆかりの地を訪ねる」というもの、近くまでは車3台で行きました。今回の報告はまずは「概要」ということにします。

 

 太平洋に面した熊野灘は、今回の東日本大震災で壊滅的な被害を被った岩手県の三陸海岸と同じ典型的なリアス式海岸で、地図には書けない幾つもの小さな入り江や巨大の岸壁が荒波を受け止めている岬が複雑に折り重なっています。また一方では、七里御浜のように二十四時間一時も休むことなく押し寄せる荒波が各種の石を洗い、奇麗に磨かれた小石が敷き詰められた海岸線もあります。

 上の写真は中日新聞社刊「いま活断層が危ない」(名古屋大学地震火山・防災研究センター編著)から撮ったもので、2005年9月5日に起こったM7クラスの地震で熊野灘一帯が南に動いたことを示す図です。★印が震源地、矢印の長さが動いた距離(右下が5㎝を示す矢印)を示しています。熊野灘(愛知県も)はユーラシアプレートの上にあり、こプレートはすぐ近くでフィリピン海プレートと激しくぶつかり合っています。この衝突線を南海トラフト(★印付近)と呼び、ここが予想される東南海地震の震源地です。数年前に読んだこの本のことを思い出しながら歩きました。

 熊野古道は一番海岸線に近い部分に続いていて、起伏に富んだ細い道です。海岸線より少し高いところを通っているのが明治以降に整備された道(旧道)で、簡易舗装がなされ軽自動車一台が通れる幅、ちょっとした平地に退避帯が設けられ対向車とすれちがうこともできます。一番高いところを通っているのが国道42号線で、多くのトンネルや橋脚をつくることによって開かれた道で、今の日本の富と技術の結晶です。私たちは42号を走り、所々で旧道に降り、狭い駐車場に車を置いて古道まで下り、古い神社に参拝し苔むした石碑の解説を読んだりしながら歩きました。

 最初に私が「胸の震え」を感じたのが上の風景です。「限界集落!」この言葉は嫌いですが、幾つもあるこうした入り江を通る度に、この言葉が執拗低音のように脳裏にこだましました。古道はこうした家々の近くも通っています。家々の佇(ただず)まいから、老夫婦だけが住む屋並みであることがわかりました。よく手入れされた狭い畑には各種の野菜が育ち、入り口には鉢植えの草花が可憐な花を咲かせ、屋敷まわりの掃除もきちんと行われていました。しかし、子どもや若者の姿はどこにもありません。私は家の近くで少し立ち止まったりもしましたが、カメラを向けることはできませんでした。道はすべて軽自動車がやっと通れる程度で、救急車はここまで入ってこられるだろうか、買い物はどこまで行かなければならないのだろう、と勝手に思いを巡らせました。こうした家々の庭先でついに人影を見ることはありませんでしたが、ここに住む人々の端然とした生き方に思い至り、最敬礼したい気持ち。だが、もう一方で、津波がここを襲う、そうした状況が消しても消しても重なって見えてしまう。出口のない連想の中で、やっと「これが歴史なのだ」といい聞かせ古道を歩きました。


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