先日、いきつけの骨董屋の主人が蕎麦を手繰りにやってきた。
休みでお店がにぎわっていたので、ゆっくり話ができなかったが、どうも
いい京焼きの煎茶道具が入ったらしい。このお店の主人も、銀座の書専門の骨董屋も
「京都コンプレックス」みたいなものをもっていて、京都の話になると、どこか一目
置いて言葉使いも「みやび」な江戸弁になる?
学生時代に、東山の珈琲屋で出会った不思議な青年がいる。ある超有名な日本画家の孫
にあたる人で、南禅寺の近くのあまり大きくはないけど、ちゃんとした庭があるお屋敷に住んでいた。
ある日、そのお屋敷に呼ばれ、下宿先の下賀茂界隈からチャリンコにのって哲学の道あたりを
通って遊びにいった。
客間にお客さんがきていて、友達のお父さん、つまりその有名な画家の息子さんが
相手していた。お客が風呂敷包みから日本の掛け軸の箱を取り出す。
「先生、これどうでしょう?」と頭を下げる。親父さんはその箱から軸を取り出し、
床の間にかけ、畳の上に正座して、ていねいに軸に一礼してから、軸を上から見て、
落款あたりを見たりして、わずか一分。「ちょっと」といった。
お客さんは、頭を少したれ、がっかりした感じだったので、「ちょっと」に含まれる意味を悟った。
お客さんは「いかほど?」というと、親父さんは「こころずけでよろし」みたいなことをいい、
そのお客さんは懐紙につつんだ「こころずけ」を置いて、玄関をでていった。
つまり、お客さんはその主人の親父である有名な画家の掛け軸の鑑定にきたのである。
テレビの鑑定団はエンターテイメント制が強く、あまり見ることはないけど、若かりしころの
あの東山のお宅での思い出は、とても印象深く、今でも骨董屋さんたちとやりとりする時に、
その呼吸みたいなものが蘇ってくることがある。
その青年も絵描きになり、銀座あたりで展覧会を数年やるようになった。
おじいちゃんにはまだ及ばないけど、雅な日本画を描く。
一度彼の絵を見て、「ちょっと」といってみようか?などと思うが、
できないでいる。そんな「いちびり」な話を愉快に思うところは、わたくし
も「京都コンプレックス」の持ち主だと思うことしきり。
明日は「気骨の鮨会」
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