「休符」というノラ猫が遊ぶオープンエアーなところに、「喫茶去」(きっさこ)
と書いた看板をだして、ひと月くらいなる。ここで「もなかや」を週末にやっていた
あだちちゃんが書いた看板。当時は、その看板を木の小槌で「ぽんぽんぽん」と
三回鳴らしてもらうと、「あ、お客さんだ」というシグナルだった。よくお寺などで
みるアレだ。喫茶去もよく禅寺で見かける。お茶だとか、飯だろか、厠、とか毎日
毎日繰り返される日常の作務の中にこそ、修行があることの象徴みたいな言葉。
茶を供する場所を「喫茶店」としたことも、よろこばしい日本の文化だと思う。
最近は「カフェ」というくくりで言われることが多いけど、界隈にもいっぱい
喫茶店ができてきた。
昨日も来店されるお客さんの9割は「珈琲」を飲まれるけど、やはり9割
近い人が「そば」を所望される。
夕方、その「喫茶去」の前に、しばらく外車がとまっていて、その後近くの
パーキングから、なかなかナイスな中年のご夫婦がやってこられ、蕎麦を食べた
後、玉露を飲みながら、「キッサコの話」をした。
先週も、ベンツにのった中年のおっちゃんとその息子みたいな人
が、同じような動線でやってこられ、蕎麦を手繰り、ほぼブラジルを飲みながら
「キッサコの話」をした。
「看板」というのも大事なもんやな、と感心。今日はその看板を書いた、看板娘
が遊びにくるらしい。ほめてやらねば・・
店の前には、すし屋ができて、大きな看板やのぼりみたいなんが昼間からひるがえって
いる。うちは相変わらず、誰も読めない「天真庵」という看板と、ほとんど読めない
「喫茶去」という看板。でも「この店に入ろう」と覚悟がある人がやってくる。変な店。
と書いた看板をだして、ひと月くらいなる。ここで「もなかや」を週末にやっていた
あだちちゃんが書いた看板。当時は、その看板を木の小槌で「ぽんぽんぽん」と
三回鳴らしてもらうと、「あ、お客さんだ」というシグナルだった。よくお寺などで
みるアレだ。喫茶去もよく禅寺で見かける。お茶だとか、飯だろか、厠、とか毎日
毎日繰り返される日常の作務の中にこそ、修行があることの象徴みたいな言葉。
茶を供する場所を「喫茶店」としたことも、よろこばしい日本の文化だと思う。
最近は「カフェ」というくくりで言われることが多いけど、界隈にもいっぱい
喫茶店ができてきた。
昨日も来店されるお客さんの9割は「珈琲」を飲まれるけど、やはり9割
近い人が「そば」を所望される。
夕方、その「喫茶去」の前に、しばらく外車がとまっていて、その後近くの
パーキングから、なかなかナイスな中年のご夫婦がやってこられ、蕎麦を食べた
後、玉露を飲みながら、「キッサコの話」をした。
先週も、ベンツにのった中年のおっちゃんとその息子みたいな人
が、同じような動線でやってこられ、蕎麦を手繰り、ほぼブラジルを飲みながら
「キッサコの話」をした。
「看板」というのも大事なもんやな、と感心。今日はその看板を書いた、看板娘
が遊びにくるらしい。ほめてやらねば・・
店の前には、すし屋ができて、大きな看板やのぼりみたいなんが昼間からひるがえって
いる。うちは相変わらず、誰も読めない「天真庵」という看板と、ほとんど読めない
「喫茶去」という看板。でも「この店に入ろう」と覚悟がある人がやってくる。変な店。
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