京都とか奈良にいって、寺の襖絵なんかに「寒山拾得」を見つけ、
それだとわかっただけで、「違いのわかる大人の日本人」みたいな感覚になる。
でもその実なにもわかっていない。寒山は蒔絵を持っていて、文殊菩薩の化身といわれ、
拾得は箒をもっていて普賢菩薩の化身といわれている。ただそれだけではなにもわかっていない。
「知ってるつもり」でしかない。
昨日は、「お花のお稽古」だった。お花もお茶も書も「道」とよばれてきた。
誰でも、すぐに、習うこともなくできることだけど、到達点がない、くらい高く(自己満足であればすぐに到達点に届くけど・・)
一生かけても、わからないことのほうがだんだん多くなるくらい、深い。
珈琲も蕎麦も同じような「道」のような気がする。分けいっても分けいったも青い山(山頭火)だ。
今朝蕎麦を打った後、昨日のお稽古の残りの花を久保さんの焼き締めの「鬼の手」(大ぶりの徳利)に投げ入れてみた。
自分の酒量では大きすぎる徳利が、ぽーっと酒がまわってきたような色気になって花が咲いた。
今日は日曜日なので16時に閉店して、それから「蕎麦無門塾」
「大道無門」という禅語がある。習おうという志があれば、門などなく、誰でもいつでも習うことができますよ、
というような意味か。お坊さんと、お坊さんみたいな人が、入門してくる。天恩感謝。
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