峰猫屋敷

覚え書と自己満足の場所

西大助 著・『巷説・逆流の人生』2

2010年07月11日 09時28分31秒 | BOOK
著者、西大助は、少年の頃に蟻の生態に興味を抱いて、蟻の観察を続けたことがあるそうです。
蟻は同種類であっても巣が違うと戦争をする。そして、よく見ると、巣が違うと身体の光沢もチョッピリ違うそうです。

蟻を戦わせるには、巣Aと巣Bの蟻の行動範囲を見て、
AとBの蟻の双方が最も近づく場所に砂糖を二ヶ所やや離して置く。

(略)
蟻Aと蟻Bとは、次には砂糖の置かれている地点を中心にして、もっと砂糖を見付けようと、円形に行動範囲を拡げ、
蟻Aは蟻Bの砂糖に、BはAの砂糖に必ず到着する。
と、双方の蟻たちは入りまじってしまい、お互いに砂糖A砂糖Bを自分たちが見付けたものだと思い込んで、争いになる。


ひどいやっちゃな~。 と、思いつつ、
このまま原文を引用します。

援軍がABの巣から次々と繰り出されると、両軍は対峙の状態になって戦争になる。
蟻の戦争の仕方は、まず一匹同士が相手を自分の巣に近いほうに引っぱり込もうとする。
力の弱いほうは、引っぱられて、敵の陣中に引きずり込まれる。
それに八匹の敵が六本の手足と二本の触角に取り付いて、八方に引っぱって殺傷する。
ちょうど、地面に磔(はりつけ)られた恰好で敵陣中に残るのである。
向かいあった戦線から、敵を味方の陣中に引っぱり入れて、その敵陣の空間に次に控えていた第二線の蟻が突入して、
敵の次の蟻と引っぱりっこをする。
つまり、引っぱっては進み、引っぱっては進んで、やがて、敵の前戦を包囲するようになると、
包囲されかけたほうは、総崩れとなって自分の巣に向かって敗走する。
戦死者や負傷者は敵軍の中に放置されたままになる。
仮に、A蟻軍を勝ちとすると、お互いの巣が比較的近ければ、A軍はB巣の中にまで侵入して、Bの蛹(さなぎ)と卵をA巣の中に運び入れる。
以上は私の観察に基づくものであるが、この蛹や卵は、昆虫学者の本によると、A蟻国の奴隷(どれい)にされてしまうのだそうである。

少年の私は、何度もこのようにして蟻の国の戦争の仕掛人になった。
蟻たちは、人である私の意思による戦争だとは露ほども気付かず、自分たちの正義の戦を続けていた。
私は、同じABの蟻を二年間にわたり(冬は勿論、休戦)戦わせたところ、三年目にはAB両国共に滅んだのであった。

こうして私は「神」を知った。
蟻にとって私は神であった。
神である私は、彼らにさとられずに、食物を与え、戦わせ、国を滅ぼした。
人間も蟻と同じで、何か得体の知れない、見えないものの意思によって操られているのではないだろうか。
現に俺が、蟻たちにとっては、その見えない意思の担いてなのだったから。


(略)

この世から戦争という馬鹿々々しい騒ぎを一掃するには、戦争仕掛人である何者か(神?)の心を、
私が現在、多くの蟻たちを殺傷し、その国を滅亡させた少年の日の罪を悔いているように、悔い改めさせなければならない。
それには、人間がまず、砂糖にたかる習性を改めなければならない。
砂糖にだまされて、二年間の夏を、戦争に明け暮れて、溶けて消えない食糧を蓄える時間と労力を失ったとき、
蟻の国は二つ共に滅び去ったのである。

人間が砂糖の甘さを忘れなければ、神は人間もまた蟻のように滅ぼすであろう。
私は、過去の一時、蟻の神になった経験の持主なので、神の心が解るのである。
神は、慈悲の塊ではない。
人が、神以上の慈悲心を持ったときに、神もまた心が動いて慈愛の者となるのである。

私だって、蟻たちが私に向かって手を合わせ「戦争を起こさないでください」と、願ってさえくれたら、
蟻戦争の仕掛人になることを恥じたであろうからである。





「神を恥じさせる」 という考え方は、面白いと思います。

以上、ずいぶん前から紹介したいと思っていた本を、やっとしました。
うまく纏まらなくて、著者がぼやいてそうだけど。


西大助 著・『巷説・逆流の人生』1

2010年07月10日 19時17分45秒 | BOOK
(長くてメンドクサイと思われる方は、どうぞスルーでお願いします。)


    


昭和62年(1987年)発行の本の話です。

この本の著者、西大助(1921年-1998年)は、昭和初期~中期頃に流行ったらしい西式健康法の創始者の三男として生まれました。
父、西勝造の没後は、当時としては莫大な借金を背負って西式健康法普及団体である西会を継ぎました。
本書は西会岐阜支部で発行していた冊子に連載していた随筆をまとめたものです。

著者は子供の頃から成績が悪く、劣等感の強い人間だったようです。
後年、人から「あなたはしっかり者」と言われたときに、相手に言った話として、
私は子供の頃から、だめな人間で、勉強はできないし、掃除当番になってもサボッて逃げるし、ということで、先生に怒られどうし。
軍隊でも毎日殴られていました。
それで、父が亡くなって、いろいろな人から、いろいろと説教され、ああしろ、こうしろと言われましたが、
そういう説教されたり、叱られたりすることには、お蔭さまで子供の頃から慣らされておりましたので、堪えていくことができただけなんです。
少年時代に秀才と言われ、褒められて育っていたら、とても堪えられなかったでしょう。
(P158「破局物」も天の声として受け止めよ から)
とあります。
つまり、そういう人だったんですね。


さて、タイトルの 『巷説・逆流の人生』 ですが、まず「巷説」ですが、
「ちまたで言われていること」と、いうほどの意味で「小説」とか「巷談」のことである。
小説は、今日では「全くの作り話」を指すようになり、巷談は「講談」になって、これも作り話ということに今の人は受け取るようになったので、
いろいろと考えて、やや古めかしいが「巷説」として、少しは嘘が入るかも知れないことを、あらかじめお断りしたつもりである。

(P83 地獄が無ければ地獄をつくれ から)

また、「逆流の人生」については、下記の通りです。(長文ですみません)
私の人生は今のところ六十一年間の歳月を閲(けみ)しているわけだが、
これは今の時点に立って過去を眺めて書いていくわけだから、私の時間は逆に流れているわけで、
あと十年もたつと、その時点から再び逆流する。 
十年ごとに「一昔たった」と逆流してもよいけれども、一時間ずつ、一分間ずつ、一秒間ずつ、瞬間ずつの逆流でも同じことである。
と、すると、百年たって過去を振り返るのも、一刹那(いっせつな)ごとに振り返るのも同じことで、
人間なんてものは、京に上る途中の峠で、立ち上がった蛙と同じで、通ってきた風景しか見えはしないのである。
蛙が立つと眼がうしろにつくから 「なんだ。京も同じ風景じゃないか」と、がっかりしたわけだが、
人間の目玉も後ろ向きに付いていて、通ってきた道しか見えはしない。
と、すると、自分は未来に向かって歩んでいるつもりであるが、
実は、積み重なっていく過去の堆積(たいせき)物によって、たんに推し進められているだけなのではないか?
そんなふうにも考えられる。 
と、すれば、人間、ダイヤモンドの糞をたれては、その堆積の上に乗っていれば、自然に天に届く。
が、汚穢(おわい)の垂れ流しだと、金剛座が出来ずに、天まで台座が保てない、どころか汚穢の中に沈んでしまう。
そこで、人間の、天国まで行けるか行けないか。また地獄に堕ちるか堕ちないか。
その運命は、自分が垂れた糞の質によって決まるのである。
つまり、自分では前に向かって進み、また向上しているつもりであるが、実は一歩も動いちゃいない。
過去という時間が、自分を押し上げているだけのことで、橋の上から川の流れにゴミを捨てれば汚い川。花を投げれば美しい川になる。
それで「逆に流れる人生」と言ったので、読む人はこのことを知られた上で、ご自分の一生を美しい人生として眺め、
死ぬときに「なんてきれいな世界だろう」と、極楽浄土に往って戴きたい。
極楽浄土は、峠の向こうに在ると、思っとったが、また、それでよいのだが、本当は後ろにあったんじゃ。

(P84 地獄が無ければ地獄をつくれ から)

ふーん。どうなんだろ。なんだかなあ…。という気もしないでもないですが、
とりあえず、タイトルの説明だけ。

私が一番面白いと思ったところは、著者が庭で蟻を戦わせた話でした。

長くなったので、その話は次回に。



私、まとめるのが下手だなあ…。

『文藝時代』 昭和24年7月号より

2006年11月27日 10時11分44秒 | BOOK
特集・思ひ出の太宰治

『友人相和す思ひ』  林 芙美子
『《櫻桃忌》提唱』  今 官一
『微風の便り』  伊馬春部
『いやな世の中でしたでせう』  楢崎 勤


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『太宰治と織田作之助』  青山光二

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蔵原伸二郎の話

2006年07月04日 17時10分34秒 | BOOK
昨日に続き、町田多加次著・『蔵原伸二郎と飯能』より、蔵原伸二郎の略歴と人となりについて書きます。

明治32年(1899年)に熊本は阿蘇神社の直系として生まれた蔵原伸二郎は、19歳で上京、
戦争中は戦争謳歌の詩を多く発表して売れっ子でした。
疎開先として青梅の岩藏に身を寄せ、その後埼玉の吾野で終戦を迎え、一時は入間市扇町屋に住だこともありましたが、
晩年のほとんどを飯能市で過ごしました。

戦争詩人であった蔵原。敗戦後は人が訪れることも少なくなりました。
詩人の仕事としては「小学○年生」の詩の選定などで僅かばかりの収入を得たり、頼まれれば近隣の小学校の校歌を作詞していたそうです。
しかし、詩人という職業は成り立たない、と著者は書いています。
それでも詩人であり続けた蔵原は、清貧の人だったそうです。

才能がありながらも恵まれない蔵原伸二郎は、戦後3冊だけ詩集を出しました。
3冊目の詩集、『岩魚』の中に、孫を腕に抱いて呟く様子の詩、『風の中で歌う空っぽの子守唄』があります。
その詩の中で蔵原は、赤ん坊に愛しさを感じ 幼い命の中に永遠を見据えながらも、
「お前のおじいちゃんには
 もう何の夢もない
 もう何の願いもない
 すべてが失敗と悔恨の歴史だ」
と書いています。

しかし、最後の詩集である『岩魚』は評判になり、やがて読売文学賞を受賞します。
授賞式は昭和40年2月6日。
前年から体調を崩し、1月に入院していた蔵原が危篤状態に陥ったのが授賞式の朝だったそうです。
そして翌月の3月16日、永眠。

蔵原伸二郎の大学時代の同級生であった石坂洋次郎は、『岩魚』を何気なく読んで大きなショックを受けたといいます。
「ああ、君は人知れずこれだけの仕事をなしとげていたのか、それに較べると、かりそめの名声に囲まれた私の生き方のなんと空しいことか」

青っぽい灰色(?)の瞳を持つ蔵原伸二郎を、続けてこのように賞賛します。

「碧い眼の蔵原君よ!
 少なくとも君の『きつね』の詩は天に記された文字である。
 いつまでも消えない文字である。
 私は君の何十倍、何百倍の文字を書いているが、
 それらは、青空にひととき浮かぶ白いちぎれ雲のように、
 いつのまにか、あとかたもなく消えてしまうものばかりだ」


蔵原伸二郎の奥様は色白のお嬢様だったらしく、貧しさの中にあっても常に夫を尊敬していたそうです。

蔵原が亡くなる前のしばらく、口もきけなくなって筆談していたとのことですが、
3月15日の晩、ひどく苦しみだした蔵原は奥様の手を取り、
手のひらにカタカナで 「スキ」 と書いて翌日未明に亡くなったそうです。


最後に詩集『岩魚』集録、狐の詩6編のうち、もうひとつ掲載します。

      

【 老いたきつね 】

冬日がてっている
いちめん
すすきの枯野に冬日がてっている
四五日前から
一匹の狐がそこにきてねむっている
狐は枯れすすきと光と風が
自分の存在をかくしてくれるのを知っている
狐は光になる 影になる そして
何万年も前からそこに在ったような
一つの石になるつもりなのだ
おしよせる潮騒のような野分の中で
きつねは ねむる
きつねは ねむりながら
光になり、影になり、石になり雲になる
 夢をみている
狐はもう食欲がないので
今ではこの夢ばかりみているのだ
夢はしだいにふくらんでしまって
無限大にひろがってしまって
宇宙そのものになった
すなわち
狐はもうどこにも存在しないのだ



蔵原伸二郎 『きつね』

2006年07月03日 16時31分29秒 | BOOK
  【 きつね 】

狐は知っている 
この日当たりのいい枯野に
自分が一人しかいないのを
それ故に自分が野原の一部分であり
全体であるのを
風になることも 枯草になることも
そうしてひとすじの光にさえなることも
狐いろした枯野の中で
まるで あるかないかの
影のような存在であることも知っている
まるで風のように走ることも 光よりも早く
 走ることもしっている
それ故に じぶんの姿は誰れにも見えない
 のだと思っている
見えないものが 考えながら走っている
考えだけが走っている
いつのまにか枯野に昼の月が出ていた


        


上の詩は、タイトルにもありますように蔵原伸二郎1899(明治32)~ 1965(昭和40)という詩人の作品です。
私がこの詩を知ったのは大学生のとき。新潮文庫の『現代名詩選』でした。
幾多もの名詩の中で、この詩に惹かれました。

日当たりの良い枯野にポツンと存在する狐。それでいて自分が全てであると想念する狐。
自分を風とも光とも、またそれらを超えるものとも思いながら走る狐。
走る狐はいつしか姿をなくし、風の塊が通り抜けたように枯草が直線に分かれていく。
そして、画面はポンと空を映し、昼の白月。

これを読んだとき、質の良い短編アニメを観るように絵が浮かんできました。

私はこの詩を、切り取ったノートに書き写してバインダーに挟んで持ち歩いていましたが、学生時代は遠くなりにけり。
いつしか蔵原伸二郎という名も詩も忘れかけていたとき、割合近くの本屋さんでトップ画像の、
『蔵原伸二郎と飯能』(町田 多加次・著) に出会いました。

その本を読んで驚きました。
かの蔵原伸二郎、戦後は都心から離れた東京の青梅や埼玉の吾野・入間・飯能辺りで過ごしました。
それはなんと、私が結婚してから住んでいる この地に近い場所。

この蔵原伸二郎、他にもきつねシリーズの詩がありますが、それも良いです。
の本を読むと死ぬ間際のエピソードなど、スペシャルドラマの題材にしたいくらい。

蔵原伸二郎について、次回も続けます。