著者、西大助は、少年の頃に蟻の生態に興味を抱いて、蟻の観察を続けたことがあるそうです。
蟻は同種類であっても巣が違うと戦争をする。そして、よく見ると、巣が違うと身体の光沢もチョッピリ違うそうです。
蟻を戦わせるには、巣Aと巣Bの蟻の行動範囲を見て、
AとBの蟻の双方が最も近づく場所に砂糖を二ヶ所やや離して置く。
(略)
蟻Aと蟻Bとは、次には砂糖の置かれている地点を中心にして、もっと砂糖を見付けようと、円形に行動範囲を拡げ、
蟻Aは蟻Bの砂糖に、BはAの砂糖に必ず到着する。
と、双方の蟻たちは入りまじってしまい、お互いに砂糖A砂糖Bを自分たちが見付けたものだと思い込んで、争いになる。
ひどいやっちゃな~。 と、思いつつ、
このまま原文を引用します。
援軍がABの巣から次々と繰り出されると、両軍は対峙の状態になって戦争になる。
蟻の戦争の仕方は、まず一匹同士が相手を自分の巣に近いほうに引っぱり込もうとする。
力の弱いほうは、引っぱられて、敵の陣中に引きずり込まれる。
それに八匹の敵が六本の手足と二本の触角に取り付いて、八方に引っぱって殺傷する。
ちょうど、地面に磔(はりつけ)られた恰好で敵陣中に残るのである。
向かいあった戦線から、敵を味方の陣中に引っぱり入れて、その敵陣の空間に次に控えていた第二線の蟻が突入して、
敵の次の蟻と引っぱりっこをする。
つまり、引っぱっては進み、引っぱっては進んで、やがて、敵の前戦を包囲するようになると、
包囲されかけたほうは、総崩れとなって自分の巣に向かって敗走する。
戦死者や負傷者は敵軍の中に放置されたままになる。
仮に、A蟻軍を勝ちとすると、お互いの巣が比較的近ければ、A軍はB巣の中にまで侵入して、Bの蛹(さなぎ)と卵をA巣の中に運び入れる。
以上は私の観察に基づくものであるが、この蛹や卵は、昆虫学者の本によると、A蟻国の奴隷(どれい)にされてしまうのだそうである。
少年の私は、何度もこのようにして蟻の国の戦争の仕掛人になった。
蟻たちは、人である私の意思による戦争だとは露ほども気付かず、自分たちの正義の戦を続けていた。
私は、同じABの蟻を二年間にわたり(冬は勿論、休戦)戦わせたところ、三年目にはAB両国共に滅んだのであった。
こうして私は「神」を知った。
蟻にとって私は神であった。
神である私は、彼らにさとられずに、食物を与え、戦わせ、国を滅ぼした。
人間も蟻と同じで、何か得体の知れない、見えないものの意思によって操られているのではないだろうか。
現に俺が、蟻たちにとっては、その見えない意思の担いてなのだったから。
(略)
この世から戦争という馬鹿々々しい騒ぎを一掃するには、戦争仕掛人である何者か(神?)の心を、
私が現在、多くの蟻たちを殺傷し、その国を滅亡させた少年の日の罪を悔いているように、悔い改めさせなければならない。
それには、人間がまず、砂糖にたかる習性を改めなければならない。
砂糖にだまされて、二年間の夏を、戦争に明け暮れて、溶けて消えない食糧を蓄える時間と労力を失ったとき、
蟻の国は二つ共に滅び去ったのである。
人間が砂糖の甘さを忘れなければ、神は人間もまた蟻のように滅ぼすであろう。
私は、過去の一時、蟻の神になった経験の持主なので、神の心が解るのである。
神は、慈悲の塊ではない。
人が、神以上の慈悲心を持ったときに、神もまた心が動いて慈愛の者となるのである。
私だって、蟻たちが私に向かって手を合わせ「戦争を起こさないでください」と、願ってさえくれたら、
蟻戦争の仕掛人になることを恥じたであろうからである。
「神を恥じさせる」 という考え方は、面白いと思います。
以上、ずいぶん前から紹介したいと思っていた本を、やっとしました。
うまく纏まらなくて、著者がぼやいてそうだけど。
蟻は同種類であっても巣が違うと戦争をする。そして、よく見ると、巣が違うと身体の光沢もチョッピリ違うそうです。
蟻を戦わせるには、巣Aと巣Bの蟻の行動範囲を見て、
AとBの蟻の双方が最も近づく場所に砂糖を二ヶ所やや離して置く。
(略)
蟻Aと蟻Bとは、次には砂糖の置かれている地点を中心にして、もっと砂糖を見付けようと、円形に行動範囲を拡げ、
蟻Aは蟻Bの砂糖に、BはAの砂糖に必ず到着する。
と、双方の蟻たちは入りまじってしまい、お互いに砂糖A砂糖Bを自分たちが見付けたものだと思い込んで、争いになる。
ひどいやっちゃな~。 と、思いつつ、
このまま原文を引用します。
援軍がABの巣から次々と繰り出されると、両軍は対峙の状態になって戦争になる。
蟻の戦争の仕方は、まず一匹同士が相手を自分の巣に近いほうに引っぱり込もうとする。
力の弱いほうは、引っぱられて、敵の陣中に引きずり込まれる。
それに八匹の敵が六本の手足と二本の触角に取り付いて、八方に引っぱって殺傷する。
ちょうど、地面に磔(はりつけ)られた恰好で敵陣中に残るのである。
向かいあった戦線から、敵を味方の陣中に引っぱり入れて、その敵陣の空間に次に控えていた第二線の蟻が突入して、
敵の次の蟻と引っぱりっこをする。
つまり、引っぱっては進み、引っぱっては進んで、やがて、敵の前戦を包囲するようになると、
包囲されかけたほうは、総崩れとなって自分の巣に向かって敗走する。
戦死者や負傷者は敵軍の中に放置されたままになる。
仮に、A蟻軍を勝ちとすると、お互いの巣が比較的近ければ、A軍はB巣の中にまで侵入して、Bの蛹(さなぎ)と卵をA巣の中に運び入れる。
以上は私の観察に基づくものであるが、この蛹や卵は、昆虫学者の本によると、A蟻国の奴隷(どれい)にされてしまうのだそうである。
少年の私は、何度もこのようにして蟻の国の戦争の仕掛人になった。
蟻たちは、人である私の意思による戦争だとは露ほども気付かず、自分たちの正義の戦を続けていた。
私は、同じABの蟻を二年間にわたり(冬は勿論、休戦)戦わせたところ、三年目にはAB両国共に滅んだのであった。
こうして私は「神」を知った。
蟻にとって私は神であった。
神である私は、彼らにさとられずに、食物を与え、戦わせ、国を滅ぼした。
人間も蟻と同じで、何か得体の知れない、見えないものの意思によって操られているのではないだろうか。
現に俺が、蟻たちにとっては、その見えない意思の担いてなのだったから。
(略)
この世から戦争という馬鹿々々しい騒ぎを一掃するには、戦争仕掛人である何者か(神?)の心を、
私が現在、多くの蟻たちを殺傷し、その国を滅亡させた少年の日の罪を悔いているように、悔い改めさせなければならない。
それには、人間がまず、砂糖にたかる習性を改めなければならない。
砂糖にだまされて、二年間の夏を、戦争に明け暮れて、溶けて消えない食糧を蓄える時間と労力を失ったとき、
蟻の国は二つ共に滅び去ったのである。
人間が砂糖の甘さを忘れなければ、神は人間もまた蟻のように滅ぼすであろう。
私は、過去の一時、蟻の神になった経験の持主なので、神の心が解るのである。
神は、慈悲の塊ではない。
人が、神以上の慈悲心を持ったときに、神もまた心が動いて慈愛の者となるのである。
私だって、蟻たちが私に向かって手を合わせ「戦争を起こさないでください」と、願ってさえくれたら、
蟻戦争の仕掛人になることを恥じたであろうからである。
「神を恥じさせる」 という考え方は、面白いと思います。
以上、ずいぶん前から紹介したいと思っていた本を、やっとしました。
うまく纏まらなくて、著者がぼやいてそうだけど。