峰猫屋敷

覚え書と自己満足の場所

子どもの頃に見えていたもの

2020年08月03日 22時49分53秒 | 思い出話
タイトルから、妖精とか霊だと思われた方がいらっしゃいましたら、
申し訳ありません。
私は霊感ありません。

それは、目を閉じたときに、ふいに現われました。

トップ画像にあげたような、赤と青の光の点が、
まぶたの裏を流れます。

見ようと思っても見られなくて、
いつも、思いがけないときに突然現われました。

ペイントソフトで上手く描けませんでしたが、
もっと鮮やかな赤と青の光でした。
他の色はありません。

しっかり見ようとしても、サーッと流れてしまって、
よく見えませんでした。

たぶん、小学校低学年くらいまで見えていたけど、
大きくなったら見えなくなりました。

最近、思い出して、
「また見たいな」
と、思ったりします。

とてもとても、美しい光でした。


脳の見せる光なのだと思いますが、閃輝暗点でもないと思うし、
なんか名前のついている現象なのでしょうか。

昭和40年代半ば頃の日原鍾乳洞

2013年08月07日 22時41分57秒 | 思い出話
立秋になったとたん、日が暮れてから秋の虫の声のようなものが聞こえてきました。
夏らしいこと、何にもしていないのに。

さっきテレビを見ていたら、今、奥多摩が人気だそうです。
日原鍾乳洞、昔、行きました。
小学生のときの写真です。

   


追記・鍾乳洞の前の川の写真

   



ナリー×マス

2010年12月25日 12時36分28秒 | 思い出話
幼稚園のとき、クリスマスの絵の上に、こう書いた覚えがあります。
「なりーバツます」 なんだそりゃ。


私が通っていたのは、キリスト教の幼稚園でした。
あるとき、全員がホールに集められ、歯磨きの大切さを先生が話しました。
どこかの歯ブラシ屋さんもタイアップしていたようです。

ちょっと恐い女の先生が、みんなに聞きました。
「毎日3回以上、歯を磨いている人」 
ほとんど手が挙がりませんでした。
「2回磨いている人」 
何人か手を挙げました。

「1回磨いている人」

じつは私、幼稚園時代はほとんど歯を磨いていませんでした。 (今は朝晩きっちり磨いてます)
でも、子ども心に、≪それ、正直に言うとマズイ雰囲気だぞ≫ と、思っので、「1回」のところで手を挙げました。

「では、1回も歯を磨いていない人」
全園児の中で、1人だけ手を挙げました。
他のクラスの、A子ちゃんでした。

先生はみんなの前で、A子ちゃんを責めました。
みんなに試供品の歯ブラシが配られるときも、A子ちゃんを見降ろすように歯ブラシを振りあげて、
「あなたには歯ブラシあげません!」と、なおも責めていました。

泣きそうなA子ちゃんを見て、私は心の中で思いました。
「正直に手を挙げなくて良かった」




正直者のA子ちゃんに、神の御加護がありますように。
そして小心者の私に、罰が当りませんように。

トトと雛祭り

2008年03月04日 11時07分39秒 | 思い出話
「今日は女の子のお祭りだから、お母さんが主役よっ
昨日、子どもたちに言ってみましたが、思ったとおりの冷たい反応でした。
私だって上の定義に、一部当てはまってないことぐらい自覚しとるわい。


そこで就寝前に、トトと女同士で雛祭り。 
写真見てもわかるように、トトはとても嬉しそうでした。


ところで、犬や猫は人間の年に換算すると最初の1年で20歳になって、あとは1年に4歳ずつ年を取るそうです。
トトは7歳4ヶ月だから、人間ならば45歳くらい。
犬や猫を飼っている人は誰でも考えることでしょうが、私もよく、
「トトが人間だったら…」 と考えます。

たぶん、こんな感じでしょう。

        
        
        




              



彗星が地球に衝突する前日の夢

2006年12月29日 23時36分31秒 | 思い出話
下の   から   までの記事は、11月17日に書いたのですが
暗くてマジメな内容だから下書き状態で放置してました。
でも、せっかく書いたんだし、おめでたムードの新年になる前にアップしちゃいます。


                                
        

中学生の自殺が相次いでいる今日この頃。
ふと、自分の中学生時代を思い出しました。

とくにイジメられているわけでなくても、小学校高学年~中学生くらいの時期って、
自殺について考えることはあると思います。
みんながみんなじゃないかもしれないけれど、私も考えました。

正直なところ、私はブサイクです。成績も良くはなかったです。
中学時代、「こんなに目の小さい人って初めて見たわ」 と言われたり、
「西さんって、足が短いよね」 と、私が後ろにいることを知らずに、友達同士で囁いているのを聞いちゃったりしてたし。 
そのくらいの年頃って、容姿が大きな比重を占めているものなのです。   

だからといって、別にイジメられていたわけじゃないし良い友達もいました。
(元々、無理に友達を作るよりは一人で本を読んでるタイプだったから、自然に出来た友達だった)
もし自殺を考えたとしても、容姿が原因でもなかった気もするし。

試そうとするまでいかなかったから、それほど真剣に考えたわけじゃなかったかもしれないけれど、
でも、とにかく勉強とか、いろんな嫌なことから逃げたい気持ちがあって 「自殺」 が頭をよぎった時期がありました。
中学2年生のときでした。


そんなある日、2階の自分の部屋で、昼寝…というか夕寝をしました。

          
                 


いつの間にか、世の中は大変なことになっていました。
明日、彗星が地球に衝突することがわかったのです。
街にはトラックを奪い、略奪に走る人々がいました。
兄たちもそのようなことをしていました。
みんな、突然命が終わるという現実を突きつけられて、どうしていいかわからなくなっていました。

私は茶の間でその様子を見て、悲しくなって鼻水が出てきました。
持っていきようのない怒りをぶつけるようにして、母に向かって乱暴に、
「そこのチリ紙取ってよっ」 と言いました。

すると、母はものすごく悲しそうな顔でチリ紙を取ってくれながら、
「ああ。こんな子になっちゃって…」 と、言いました。

母の悲しそうな様子を見たとたん、悲しみが押し寄せてきました。

自分はまだ、何もしていない。
善いことも、悪いことすらも。
何にもしていないのに、明日は死ななきゃならないんだ。

        
                  
   
    
わーわー泣きながら目が覚めました。
一度泣き止んでから、家族がいる茶の間に降りていったけど、
やはり悲しみを抑えることが出来なくて、家族の前でも泣き出しました。

それから30何年も経つのに、まだ善いことあんまりしてないけど、
それでもあの強烈な夢は、自分の中で意義があったような気がします。


                                

ここまで11/17に記載。以下、本日。


夢判断では、たしか、「死ぬ夢」 や 「殺される夢」 は、古い自分から脱却し、新しく生まれるという意味で悪くはないようです。

だから、来年はまた新たに生まれ変わるつもりで、過去に見た死ぬ夢・殺される夢を列挙してみます。

最初に見たのは、たぶん3~5歳くらいのとき。
当時住んでいた自宅の門のところで母親に横抱きにされた私は、男の人に大きな刀で首を切り落とされました。
母は首のない私をそのまま抱いていたように思います。

次は10歳か11歳くらいのとき。
古い時代の日本(戦国時代くらい?)の滝のそばで小刀で自分の首を切り、自害しました。
目覚めたときに首がヒリヒリしていたので印象に残りました。

この後は10代の終わりから20代以降だと思うけど、
私は兵士で、脱走して祖母の部屋に逃げ込みます。
観音開きの扉の作り付けの棚に、後ろ向きに背を丸めて隠れていると、上官たちが入ってくるのがわかりました。
じきに背中から撃たれるだろう、というところで目が覚めました。

現代。麻薬か覚せい剤の取引現場を目撃してしまい、こめかみにピストルの銃口を突きつけられ、指に力が入るのがわかります。
次の瞬間には撃たれるという一瞬、死を覚悟しなくちゃという考えと、諦めきれない、ものすごい恐怖が交錯しました。
(この夢を見たあと、八王子のスーパー強盗の事件があり、撃たれて亡くなった方々の恐怖がどれほどだったかと胸が痛みました)

どこかの国の民族組織で ②兄の裏切りと通報により、銃殺される寸前の夢。


幼い頃に見た首を切ったり切られたりする夢ですが、25歳のとき、海で波に打たれて頚椎を損傷しました。(いわゆるムチウチ)
それと関係あったりして。
今でも手が痺れることがあります。
30代の終わりに将来障害が出る怖れがあるからと、喉から切って頚椎の骨を削るとかいう手術を勧められましたが、
そのためのMRIを撮る数日前に胆石症で別の病院に緊急入院、結局首の手術はそれきりになりましたけど…
もしかしたら、胆石で助かってたんだったりして。
首切り手術はやらなくて良かったような気がしてます。



今年もあと2日。
更新できればしますし、出来なきゃしません。 






卒業の時。 友よ…

2006年11月27日 11時44分55秒 | 思い出話


実家での最後の発掘作業時に、小学校と中学校の卒業のとき、友達が書いてくれたお別れの言葉を綴ったノートが出てきました。

その中から、少し抜粋して載せます。
まず、小学校。

N.Sさんより。


そして、その次に書かれていた、K.M君より。
彼は、非常に優しい男の子でした。

塩を塗っていただいた傷口、今頃になって疼いております。
まことにありがとうございました。


さて、続きましては中学の卒業ノート。
M.Iさん。


J.Nさん


M.Kさん


H.Sさん


K.Kさん


K.Oさん


Y.Sさん


暖かい言葉の数々、この年になりましても心に染み入ります。
涙・また涙。
未だ居住致しますアンダーグラウンドに、静かに浸み込み続けております。


ついでに、十二支根付の自分の干支である亥年に書かれていた文章。



「亥は十二支の十二番目にあてられ尊ばれております」 と書きながら、




だもんな。


しかし、ホントのこと書くと、ノートに書かれた放送禁止用語などは ごく一部で、
しかも、そう書かれることが嬉しかったりしてました。

私、もともと無理して友達作ろうとするタイプじゃなくて、たいてい1学期の休み時間は自分の席で本を読んでいました。
ですから、1学期の印象は 「おとなしい人」。
で、2学期頃から本性が見え始めて、気の合う友達がわかってくる…というパターンでした。
キ○ガイでもバカでも良い。
そういう評価されても自分を貫けた学生時代に乾杯。


なお、トップ画像はノートの間から出てきた昭和49年3月12日( 火曜日) の毎日新聞の切り抜き。
中学卒業の記念に切り抜いて挟んだのでしょう。(なんで?)

裏の写真




      追記

この写真の鈴木紀夫さんが気になって、検索してみました。
いくつかヒットしたけど、ココがいいかな。
「1986年、雪男探しに出かけたヒマラヤ・ダウラギリIV峰で遭難死した。享年38歳。」
夢枕獏の 『神々の山嶺』 の羽生を思い出しました。



     さらに追記

ウィキペディアの情報によると、今年今月は鈴木紀夫さんが亡くなって、丁度20年目でした。合掌。



                

この下に今日の記事が、もうひとつあります。

父の夢  

2006年11月18日 13時32分41秒 | 思い出話
さて、父の話ですが、今考えると良いところしか思い出せないし、
何を思い出しても良い方に考えてしまいますが、生きているときは反発ばかりしていました。
亡くなった時も、私は既に結婚して家を出ていたから元々毎日会っていたわけではなし、
永遠のお別れという実感がなかったので泣けませんでした。

そして泣かないままに時間が過ぎ、何度か父が夢に出てきました。
父と廊下ですれ違い、「あれ、お父さん。死んだはずなのに元気そうじゃん」 というと、
父は、「元気じゃない!」 と怒り出したりして。

亡くなってから3ヵ月ほどしたある日、布団に横になっている父としばらく話をしたあと、
部屋から出たときに 「あっ」 と気がつきました。
「お父さんは死んだんだから、これは夢なんだ」

夢と気付いた私は、父のところに戻り、手を握って言いました。
「お父さん、ありがとう。 お父さんのお蔭で私、幸せだよ」
父はとても嬉しそうな顔をしました。

目が覚めた私は、初めて号泣しました。


それまで頻繁に夢に出てきた父は、それ以来ほとんど出てきません。
不思議なものです。
私自身の中でひとつの区切りがついたのかもしれません。


トップ画像は実家の庭にあったお地蔵様です。
他にも石灯籠や五重塔、富士山型の石などがありましたが、母の新居へはこのお地蔵様だけを持っていくことが出来ました。


井戸枠の石


五重塔


石灯籠


漬物には不向きな石


あの頃君は若かった

2006年09月19日 19時51分59秒 | 思い出話
トトの可愛い写真も見たいと仰ってくださる奇特な方がいらっしゃいましたので、トトの生後数ヶ月の写真を掲載します。
顔立ちはシベリアンハスキーに似ていますが、まだ耳が立ってなくて純真無垢な頃です。
お腹のところにマスコット人形がふたつ置いてあります。
肉球がきれいなピンク色。


さて、日曜に行った美輪さんの音楽会ですが、美輪さん作詞作曲の反戦歌も歌われました。
美輪さんの話によると初日に江原さんが見に来ていて、従軍慰安婦の歌、『祖国と女たち』 を歌っているときには後ろにたくさんの霊が来ていて、「私たちのことをわかってくれた」 と喜んでいたそうです。
もちろん、私には見えませんでした。

スタンディングオベーションについては、コメントでいろいろ教えて戴きました。
最近のコンサートは、ほとんど立つんですってネ。
美輪さんの音楽会では歌の最中にノリノリになることはありませんが、もしそういうコンサートに行っても、
私はひとりノレないだろうということを思い出しました。

なぜなら、私の20代の頃はデスコっちゅう踊り場が大盛況でしたが、私は行ったことがありません。

その代わりといっては何ですが、ユリ・ゲラーの公開実験や、平野威馬雄氏の、『お化けを守る会』 の会合には参加したことがあります。<o( ̄^ ̄)o> エッヘン!!

『お化けを守る会』 は、千葉の松戸あたりのお寺でやったように記憶しています。
それほど広くない畳敷きの部屋で、霊能者数人と一般の物好きが集まって、
霊能者のお話を聞いたり、コックリさんをやりました。

最近では、「低級霊しか来ないから、絶対やっちゃダメ」 と言われるコックリさんをやったというのが、なんか妙な気がしますが、霊能者が居たからオッケーだったのかな。
平野威馬雄氏もその場にいましたが、個人的に話はしませんでした。


花も恥らう乙女の頃、デスコには興味なかったけど デス後に興味があったというお話。
お後がよろしいようで。


昔の絵日記 2

2006年08月27日 10時43分25秒 | 思い出話
昭和60年8月22日の絵日記より、引き続き
『天才たけしの元気が出るテレビ』の企画、「プロ野球入団テスト予備校 入学テスト」の収録現場アルバイトの様子。
ごくプライベートな日記より、「ああ、そういえばこんなのあった」 的な楽しみを提供できればと、ご紹介してます。

2回めのこのバイトは多摩川沿いの巨人軍のグランドでした。

7:45渋谷でY子ちゃんと待ち合わせた。
多摩川グランドまでタクシーで行き、じはらくは何もすることがなかった。
青田さん、柳田さんが来てから忙しくなった。
ふたりともA面の巨人2軍の練習を見ていたので、しぱらく待ってから巨人軍のクラブハウスへ案内した。
柳田さんはユニフォームのズボンがきつくて、パジャマを履いてもらった。
スパイクも小さくて、早稲田の学生さんに犠牲となってもらった。
青田さんはアンダーとスパイクを用意してきてくれた。
高田純次さんは1回家に戻って着替えてきた。
お昼休み中、高田純次さんにサインをもらった。
握手の手も出してくれた。
一次テスト後、二次テストのピッチャーの方で柳田さんの横で言うことをメモしていた。
ひとり、すごく有望な子がいて(中央大の20歳)、青田さんも柳田さんもプロにマジで誘う気らしく、とても喜んで興奮していた。
帰りに渋谷でY子ちゃんとお茶を飲んだ。


絵の方は、説明付きで4つ描いてあります。


柳田さんは、ユニフォームが伸びなくてきついと、「殿中でござるー」 と叫びながら道を歩いていた。





青田さんは車(帰りのタクシー)がなかなか来ないので、土手の木陰でのんびり待っていてくれた。虫取りの子供たちに話しかけたり、立派な好々爺だった。




高田さんは帰るとき、車の中から会釈してくれた。




IVSの伊藤さんは、普段いっさい片付けとかしない人だそうなのに、今日に限って大事な名簿をだまって持って帰り、スタッフを恐怖とパニックに落とし入れた。



この ‘伊藤さん’ですが、Y子ちゃんは当時、 「あの人はすごい人だ。あの人こそ天才だ」 と言っていました。
(たしか、発想が常人と違うとか言ってたような)
私はただ、「へー、そうなの」 と言うだけでしたが、後のテリー伊藤さんでした。

昔の絵日記

2006年08月26日 08時58分48秒 | 思い出話
先日実家の片付けしていたとき、昔書いた絵日記が出てきました。
1983(昭和58)年~1985(昭和60)年までで、
当時もう20代だったというのに、夏休みになると数日間 絵日記描いてました。(暇な青春)

その中の、アルバイトの記述をご紹介します。
中学時代の友人のYちゃんが、自分の職場のバイトに誘ってくれたのでした。
トップ画像はそのとき、昭和60年8月3日(土)の日記のページ。

内容は、
朝7:00に渋谷でYちゃんと待ち合わせして、8:00に川崎球場に行った。
「天才たけしの元気が出るテレビ」での「プロ野球入団テスト予備校入学テスト」で、受付をやったり、
ゲストの青田、荒川両解説者・高田純次レポーターの控室案内やら、氷を買いに行ったり控室の番をやった。


という内容でした。
画像の横の文章は、
荒川さんの たけし猫まねきユニフォームが異常な程 似合っていた
と、あります。



(見えにくいので、再度アップ)
この絵は、かの王貞治氏を見出して野球選手として育てた、元・巨人軍のコーチ、ヤクルトスワローズ監督の荒川博氏です。

このバイト、8月22日にもやってます。
そっちは次の記事にします。



          


さて、どうなっているのか わからなかった長男の夏休みの宿題の様子の一部が、昨夜明らかになりました。

太郎丸 「母ちゃん、国語、得意だよね?」
私    「そーでもないよ」
太郎丸 「宿題やってくんない?」
私    「やだ」
太郎丸 「しょうがねえなあ。おい、次之介。おまえ、俺の宿題やれ」

次男の部屋に行った長男は、何か交渉していました。人の良い次男は、引き受けたようです。

私    「あんた、国語の宿題引き受けたの?」
呆れて次男に聞くと、
次之介 「いや、おらは家庭科の宿題を頼まれた」
あと、どれだけ宿題が残っているんだろう……。

小学生時代の こくごノート

2006年08月01日 17時41分47秒 | 思い出話
今、ワケありのため、一生懸命実家の片付けをしています。
先日も棚を一つ、整理してきました。
これは、その中にあった私の使っていた こくごノートです。
裏を見ると 定価¥20 ですって。

小学校1年生のときのもののようで、表紙の裏に今のノートでは見られない記述がありました。




これを読み易く打ちますと、


     指導者の方へのお願い   (文部省学習指導要領準拠)

一、 鉛筆は2Bか3Bあたりのもので、持ち方は一本がけであまり下すぎないところを持ち、角度は、右手前へ五、六十度に傾けるようにさせる。

二、 目と紙は三十センチメートルぐらいに保たせ右前で書かせる。

三、 初めはクレヨン、クレパス等を使って五センチメートル角ぐらいの大きさの文字を書かせる。

四、 文字に筆順のあることを知らせ、筆順によって書けるようにさせる。
   ( 一ねん(二)の裏表紙参照)

五、 落ちついてゆっくり運筆するように習慣をつけ、正しく美しく書かせるようにする。

六、 鉛筆のしんの削り方に注意し、しんを長く出さないようにする。


        


なお、左側は教科書の 『げんごろうぶな』 を写したようです。


わー、もう晩御飯の支度しなくちゃ。
コメントはまた後で書きますね~。



でも、2つだけツッコミしたい。
「目と紙は三十センチメートルぐらいに保たせ」って、紙はともかく、目は30センチに出来ないっすよ

だいたいこれ、生徒に持たせるノートに書く必要はどこにあるんでしょう。

17年と半年ちょっと前の話

2006年07月23日 19時55分36秒 | 思い出話
十数年間ごっちゃに いろんなものを入れたままの引き出しから、平成元年の手帳が出てきました。
そこには忘れていた出来事が。 あのときは日本国中が非日常でした。
以下、その手帳から。


            



1988年(昭和63年)9月から、天皇が瀕死の状態で、民間では新元号などについて数々の噂が飛び交った。
まず、「アサヒ」 になるという噂。これは、「朝日」 という説と 「旭」 という説があり、
東京をはじめ京都、九州あたりまで まことしやかに流れた。
中には、「教育委員会からの情報」 ともいわれた。
その他 「自民党の関係者から聞いた」 という別の元号等、いろいろあったが、
実際に候補にあがった3つ ( 平成・修文・正○? ) は、ひとつとして噂にのぼらなかった。
御陵も 「昭島の昭和記念公園が御陵となる」 という噂があったが、実際には八王子の武蔵御陵となった。

1月7、8の両日、全テレビ局がCMなし。天皇関係の話や、昭和史ばかりだった。つまらなかった。( NHK教育テレビのみ通常 )
民間は2日間、歌舞音曲停止だった。( クラシックのみ許可 )
ラジオもずーっと繰り返しの話ばかり。



           



このメモを書いたとき、私は長男を妊娠中でした。
噂を聞く範囲もそれほど大きくない、一妊婦の見聞です。
インターネットも普及する前だったし。

教育テレビの 「スキー教室」 は印象的でした。
全チャンネル出演者が白黒の衣装で沈痛な面持ちの中、カラフルなスキーウェアに身を包み、にこやかで明るかった。
ちょっとホッとしたのが本音でした。


ニューヨーク大停電の10ヵ月後がベビーブームだったように、
平成元年11月頃って、出生率は増えなかったのかなあ。

気のいい郵便配達夫

2006年07月15日 11時15分52秒 | 思い出話
今日ご紹介するのは、2年くらい前の話です。

その日の午後、私は車で出掛けていました。
三男が帰るまでに帰りたかったのですが、思ったより遅くなってしまいました。
その日、三男のランドセルには念のため家の鍵を入れてありましたので、
もし間に合わなくても自分で鍵を開けて入っていることでしょう。
だから、まあ大丈夫だろうけど…と思いながら自宅前まで車を進めると、
郵便屋さんのオートバイが止まっていました。

我家は道路から少し奥にあるので、郵便屋さんはオートバイから降りて、
駐車場でもある路地状敷地を10数メートル歩いてポストに配達してくれます。

私は車を駐車場に入れることが出来ないので、家の手前で待っていました。

ポストまで往復してすぐオートバイに戻るはずだから、出てきたら 「ありがとうございます」 と会釈して車を入れよう…

そう思って待っていましたが、郵便屋さんはなかなか出てきません。
「おかしいな」 と思って車を降りて家の方に行ってみると……

トップ画像の光景が玄関の前に。
郵便屋さんが息子のランドセルを開けて中を覗き込んでいる姿は、意外だったし異様でした。

「あのぉ……」
と、声を掛けると、郵便屋さんは私に気付いて慌てたように言いました。
「いや、その、この子が鍵を出して欲しいと言うもので…

私は息子が鍵を出せなくなったので、ちょうど来た郵便屋さんにお願いしたのかと思いました。
それで、郵便屋さんに、
「すみません。ありがとうございます」
と、お礼を言うと、郵便屋さんは照れたように笑いながら去りました。

でも、三男はなぜ自分で鍵を出せなかったのでしょう。
本人に聞いてみたところ、
「だってランドセル下ろして鍵出すの、面倒くさかったんだもん」

 
「そんな理由で、お仕事中の郵便屋さんに手間を掛けさせるなーー


三男の図々しさに呆れた出来事でした。 

腰痛持ちの攘夷運動

2006年06月29日 22時12分59秒 | 思い出話
まったく、近頃の日本人はなっとらん。
日本の心を忘れておる。
すっかり欧米文化に染まりおって、髪まで金や茶に染めて。
日本人の髪は、黒か白でよろし。たまに紫は許す。
4つ足動物の肉食などもってのほか。
魚に鶏に、ピョンピョン跳ねる鳥(兎)や山鯨があれば充分。
みなのもの、維新の前に帰るのじゃ。
西洋の息の掛かったものは、すべて捨てよ!

・・・・・
あ、ちょ、ちょっと待ってくれる?
洋式便所だけは、置いておいてくれないと困るのよ。
いや、便器の形は西洋の良さを認めるってばさ。
だから、それ持って行かないでよ。
イテテテテ。どっこいしょ。

         

と、洋式便座への限りない感謝を込めて、密かにこんな文章書いていたのは昨年秋のことでした。

昨年8月末に、重い利用者さんをお風呂用の椅子に移そうとしてギクッとやってから、
生まれて初めて腰痛の辛さを知りました。

立ったまま靴下履けるって、なんてスゴイことだったんだろう
スーパーマーケットのカートにカゴを置くことはできても、品物が入ったカゴをレジ台に移すって、
なんて難儀なことだったんだろう

整形外科に行っても湿布くれるだけで、あまり良くなりませんでした。
そんなとき、勤務している施設の職員さんが整骨院を紹介してくれました。

せっかく紹介してくれたんだし、藁をも縋る思いでその整骨院を訪れたのは、9月下旬。
腰痛は悪化していて、車のシートに乗り降りするのにも時間が掛かりました。
歩く姿も、いかにも不審者。
のっそり、のっそり、いてててて。

行ってみると狭い治療院に患者さんがいっぱい。
白衣を着た小泉純一郎的風貌の先生一人に、助手の女性が一人。

長い時間待って、やっと診てもらったところ、
「骨盤がずれてます」 と、言われました。

寝台に仰向けで寝て、左右の骨盤の下にゆるやかな直角三角形状の台を、微妙な角度で差し入れ、
「携帯持ってますか? 7分(だったかな?)経ったら教えてください」
と、先生は他の患者さんのところへ行きました。
よくわかんないけど言うとおりにして、時間が来たら台をはずしてもらい、
そのあとは足を曲げて押したりしてくれました。

「はい、いいですよ。それでは、出来るだけ続けて来てください」
そう言われて、立って会計をしようと歩きました。
「どうですか? 楽になったでしょ」
言われてハッと気がつきました。
うっそー そんなに痛くなーい
「狐につままれた」 という表現したいくらいの驚きでした。

それから、ほぼ毎日せっせと通い、一ヶ月後には痛みはまるで無くなりました。
お蔭で、今ではこんなにデカい腰。(それは元から。



明日は整骨院の小泉純一郎的風貌(ただし性格は良い)の先生に教わった腰痛防止ベルトの巻き方を記事にします。



無駄な記憶

2006年06月28日 17時55分21秒 | 思い出話
長男は今、沖縄に修学旅行に行ってます。
初日、「無事着いた?」 とメールしたけど返信なし。
2日目、「元気?」 とメールしたけど、やはり返信なし。
沖縄は圏外になっちゃう場所が多いのかなあ…と思いましたが……。

3日目、宅急便で長男から本人宛に荷物が届きました。
中味はどうやら酒らしい。
早速、「わーい。宅急便でお土産が届いたぞ。今夜飲んじゃおっと」 とメールしたら、
初めて 「のむなよ」 と返信が来ました。
あんにゃろ、やっぱりシカトだったな。しかもそれだけかい。

酒はきっと、20歳になるまであと3年、楽しみに取っておくのでしょう。
そーーーだよな 

 
           


ではタイトルの、「無駄な記憶」の話。
みなさんも子供の頃、今考えるとムダだったな~ってコトを一生懸命覚えたことがあるでしょう。
例えば、
他人の家の六つ子の名前、おそ松・から松・とど松・いち松・ちょろ松・じゅうし松 (「おそ松くん」より) とか、
架空の魔法の呪文、スーパーカリフラジリステックエクスピアリドゥーシャス (映画「メアリー・ポピンズ」より) とか。

でも、これらはまだいいです。
「ああ、あったあった」 と、多くの人に共感してもらえるから。
私には一般的でない暗記の記憶が、今思い出せるだけで二つあります。

ひとつは三番目の兄が、ある日、合わせ鏡をして遊んでいるときに言いました。
「夜中の12時に合わせ鏡をして、『ヤバカラソ メリボラス ○○○○○……』 と唱えると、鏡の中から悪魔が出て来るんだぞ」
私は紙に書いてもらって、一生懸命覚えようとしました。
しかし途中で兄が自分で作った嘘呪文だと白状したため、最初の方しか記憶には残りませんでした。
今はハリー・ポッターの呪文を一生懸命暗記してる子は世界中にいっぱいいるでしょうね。

もうひとつの無駄な記憶は、父の別名。
父は自分の本名に、縁起の良さそうな名前を付け加えて私に覚えさせました。
で、たまにその名前を言うと、「今度、これも付けたから」と、さらに長くなっていきました。

漢字が全部はわからないけど、その名は、
【西大助のすけたいしん すけもりあそん 源(みなもと)の八幡三郎(はちまんさぶろう) なりうじ かげてる にゅうどう ほうけん しんどう 常晃法師(じょうこうほうし) 皆真斎(かいしんさい)】
ジュゲムよりは短いけど、覚えたからって、なに
なんかの役に立つ

でも、そう言いながらも、こんな馬鹿馬鹿しい記憶が意外に大事な宝物になってたりするんですよね。

これは、世界中で私だけが持っている記憶です。
(母も他の兄妹も覚えていまい( ̄‥ ̄)=3 )
この名前を思い出すとき、生前の父の体温を感じます。

みなさんも、こんな、自分だけの馬鹿馬鹿しいけど大事な記憶ってありません?


 トップ画像は父と、当時飼っていた猫のポケです。