峰猫屋敷

覚え書と自己満足の場所

右回り 左回り

2006年06月30日 16時18分20秒 | 豆知識
腰痛防止の骨盤ベルトですが、私はゴム製ベルトをしていました。(写真参照)
余談ですが、モデルに犬を使おうと思って、一度トトの腰に巻いたのですが逃げられました。

さて、整骨院に通って何度目かの診察のときです。
先生から普段使っている骨盤ベルトを持ってくるようにと言われ、次の日に持っていくと、
「普段はどういう向きに巻いてますか?」 と、聞かれました。
「ええと、普通のベルトと同じ向きで巻いて、右が上に重なるようにしています」
「それじゃ、逆。(にやり)」
「え?」
「あなたは ‘気’ の流れが右回りだから、左が上に重なるように巻かなければ効果がありません」

えー 

「試しに、今まで巻いていたように巻いてみてください」
先生は、左巻きにしたベルトの端を持って揺すりました。
グラグラグラ。
「今度は右巻きで巻いてみてください」
次も同じように揺すられましたが、さっきほどはグラグラしません。
たしかに安定感が違います。

巻く位置は、腰骨の上から掌ひとつぶん下に、ベルトの上端が来るようにとのことでした。

私は先生に聞いてみました。
「気の流れは人によって違うんですか?」
「違います」
「先生はなぜ、右回り左回りがわかるんですか?」
「・・・・・(黙って施術)」
「見えるんですか?」
「ふふふふふ」
「不思議ですね」
「不思議でしょう」

結局、一番知りたいことはわかりませんでした。

骨盤ベルトを使う方は、自分で両方の向きに巻いてみて、安定する方の巻き方にすると良いと思います。
ただ、もしかしたら症状や痛みの場所でも巻き方は違うかもしれませんので、
腰痛になったらまずは専門家に診てもらいましょう。

    

腰痛という貴重な体験もさせてもらった仕事でしたが、昨日をもちまして辞めました。
あと一回、ユニフォーム返しに行くだけです。
人に恵まれた、良い職場でした。

腰痛持ちの攘夷運動

2006年06月29日 22時12分59秒 | 思い出話
まったく、近頃の日本人はなっとらん。
日本の心を忘れておる。
すっかり欧米文化に染まりおって、髪まで金や茶に染めて。
日本人の髪は、黒か白でよろし。たまに紫は許す。
4つ足動物の肉食などもってのほか。
魚に鶏に、ピョンピョン跳ねる鳥(兎)や山鯨があれば充分。
みなのもの、維新の前に帰るのじゃ。
西洋の息の掛かったものは、すべて捨てよ!

・・・・・
あ、ちょ、ちょっと待ってくれる?
洋式便所だけは、置いておいてくれないと困るのよ。
いや、便器の形は西洋の良さを認めるってばさ。
だから、それ持って行かないでよ。
イテテテテ。どっこいしょ。

         

と、洋式便座への限りない感謝を込めて、密かにこんな文章書いていたのは昨年秋のことでした。

昨年8月末に、重い利用者さんをお風呂用の椅子に移そうとしてギクッとやってから、
生まれて初めて腰痛の辛さを知りました。

立ったまま靴下履けるって、なんてスゴイことだったんだろう
スーパーマーケットのカートにカゴを置くことはできても、品物が入ったカゴをレジ台に移すって、
なんて難儀なことだったんだろう

整形外科に行っても湿布くれるだけで、あまり良くなりませんでした。
そんなとき、勤務している施設の職員さんが整骨院を紹介してくれました。

せっかく紹介してくれたんだし、藁をも縋る思いでその整骨院を訪れたのは、9月下旬。
腰痛は悪化していて、車のシートに乗り降りするのにも時間が掛かりました。
歩く姿も、いかにも不審者。
のっそり、のっそり、いてててて。

行ってみると狭い治療院に患者さんがいっぱい。
白衣を着た小泉純一郎的風貌の先生一人に、助手の女性が一人。

長い時間待って、やっと診てもらったところ、
「骨盤がずれてます」 と、言われました。

寝台に仰向けで寝て、左右の骨盤の下にゆるやかな直角三角形状の台を、微妙な角度で差し入れ、
「携帯持ってますか? 7分(だったかな?)経ったら教えてください」
と、先生は他の患者さんのところへ行きました。
よくわかんないけど言うとおりにして、時間が来たら台をはずしてもらい、
そのあとは足を曲げて押したりしてくれました。

「はい、いいですよ。それでは、出来るだけ続けて来てください」
そう言われて、立って会計をしようと歩きました。
「どうですか? 楽になったでしょ」
言われてハッと気がつきました。
うっそー そんなに痛くなーい
「狐につままれた」 という表現したいくらいの驚きでした。

それから、ほぼ毎日せっせと通い、一ヶ月後には痛みはまるで無くなりました。
お蔭で、今ではこんなにデカい腰。(それは元から。



明日は整骨院の小泉純一郎的風貌(ただし性格は良い)の先生に教わった腰痛防止ベルトの巻き方を記事にします。



無駄な記憶

2006年06月28日 17時55分21秒 | 思い出話
長男は今、沖縄に修学旅行に行ってます。
初日、「無事着いた?」 とメールしたけど返信なし。
2日目、「元気?」 とメールしたけど、やはり返信なし。
沖縄は圏外になっちゃう場所が多いのかなあ…と思いましたが……。

3日目、宅急便で長男から本人宛に荷物が届きました。
中味はどうやら酒らしい。
早速、「わーい。宅急便でお土産が届いたぞ。今夜飲んじゃおっと」 とメールしたら、
初めて 「のむなよ」 と返信が来ました。
あんにゃろ、やっぱりシカトだったな。しかもそれだけかい。

酒はきっと、20歳になるまであと3年、楽しみに取っておくのでしょう。
そーーーだよな 

 
           


ではタイトルの、「無駄な記憶」の話。
みなさんも子供の頃、今考えるとムダだったな~ってコトを一生懸命覚えたことがあるでしょう。
例えば、
他人の家の六つ子の名前、おそ松・から松・とど松・いち松・ちょろ松・じゅうし松 (「おそ松くん」より) とか、
架空の魔法の呪文、スーパーカリフラジリステックエクスピアリドゥーシャス (映画「メアリー・ポピンズ」より) とか。

でも、これらはまだいいです。
「ああ、あったあった」 と、多くの人に共感してもらえるから。
私には一般的でない暗記の記憶が、今思い出せるだけで二つあります。

ひとつは三番目の兄が、ある日、合わせ鏡をして遊んでいるときに言いました。
「夜中の12時に合わせ鏡をして、『ヤバカラソ メリボラス ○○○○○……』 と唱えると、鏡の中から悪魔が出て来るんだぞ」
私は紙に書いてもらって、一生懸命覚えようとしました。
しかし途中で兄が自分で作った嘘呪文だと白状したため、最初の方しか記憶には残りませんでした。
今はハリー・ポッターの呪文を一生懸命暗記してる子は世界中にいっぱいいるでしょうね。

もうひとつの無駄な記憶は、父の別名。
父は自分の本名に、縁起の良さそうな名前を付け加えて私に覚えさせました。
で、たまにその名前を言うと、「今度、これも付けたから」と、さらに長くなっていきました。

漢字が全部はわからないけど、その名は、
【西大助のすけたいしん すけもりあそん 源(みなもと)の八幡三郎(はちまんさぶろう) なりうじ かげてる にゅうどう ほうけん しんどう 常晃法師(じょうこうほうし) 皆真斎(かいしんさい)】
ジュゲムよりは短いけど、覚えたからって、なに
なんかの役に立つ

でも、そう言いながらも、こんな馬鹿馬鹿しい記憶が意外に大事な宝物になってたりするんですよね。

これは、世界中で私だけが持っている記憶です。
(母も他の兄妹も覚えていまい( ̄‥ ̄)=3 )
この名前を思い出すとき、生前の父の体温を感じます。

みなさんも、こんな、自分だけの馬鹿馬鹿しいけど大事な記憶ってありません?


 トップ画像は父と、当時飼っていた猫のポケです。

東北の旅

2006年06月27日 09時02分48秒 | 思い出話
昨日の記事は、高校時代の友達のお姉さんが青森にキャンバスのある大学に行っていて、
そのお姉さんのアパートに泊めてもらっての旅行でした。

そのときは恐山、十和田湖、奥入瀬渓流などに行き、帰りはお姉さんの運転する車で
秋田の黒湯温泉、宮城の鳴子温泉に泊まりながら帰りました。

恐山はちょうど大祭のときだったので、イタコさんがたくさんいて口寄せしていました。
私も亡くなった母方の祖母を呼んでもらおうかと思いましたが、言葉がわかり易いイタコさんは時間が掛かりそうだったのでやめました。
青森弁は普通にしゃべられたら聞き取れません。
母方の祖母が亡くなったあと、ちょっと不思議な出来事があったので そのことも聞きたかったのですが、
その話はまたそのうちに。(と書いたまま忘れるかも)

十和田湖では友達と手漕ぎボートを借りたのですが、貸しボート屋のおじいさんは、
「本当は30分で○○○円(値段忘れた)だけど、何時間でも乗ってていいよ」
と言ってくれました。
おおっ、太っ腹 らっきー 
と、友達とボートに乗っていたら黒雲がムクムク湧き出して、
ちょうど30分後に雷が鳴り出したので、慌てて戻りました。
恐るべし、十和田のジサマ。 天候を読んでいたか。

その後、秋田の田沢湖も行きましたが、私は断然十和田湖の方が好きです。
なんというか…湖の品格が違うというか…
よくわからないけど、十和田湖には不思議な魅力があります。

トップ画像は秋田の黒湯温泉です。
部屋と廊下の仕切りは障子のみ。隣の部屋とも襖で仕切られただけで、
電気は自家発電でしたので、夜は白熱球の電灯が弱々しく黄色い光を放っていました。
水道場にはたしか、「自炊する方は…」とか、「米を研ぐときは…」とかいう注意書きが書いてあったので、
自分で米を持ち込んで泊まる人もいるのだと感心しました。
金田一耕助の出てくる小説で、終戦後間もなく米持参で温泉に泊まる描写があったと記憶していますが、
本当に金田一耕助がそこにいても違和感のない温泉でした。

その素朴な雰囲気が忘れられず、結婚してから一度夫と訪れましたが、
そのとき夫は、
「夜中に ふと目を覚ましたら、若い男が自分を見下ろしてたから、なんだこいつ、勝手に入ってきやがってと思ったけど、普通の人間にしては顔が妙に小さかった」
と言ってました。
ずるい。私も見たかった。









キリストの墓

2006年06月26日 11時30分48秒 | 思い出話
24日の『空飛ぶ円盤記念日』 のコメントから、今日の記事は若い頃行った、
青森県新郷村のキリストの墓の画像にします。

当時も既にマニアの間では有名な場所でしたが、まだ寂れた村で、行ってみて拍子抜けしました。
ネット検索してみたら今ではすごいことになってました。

28年くらい前は、他になーんにも無くて こんなだったのよ。
柵も無かったから、墓の横に立って記念撮影した写真もあります。(ブスだから非公開)













今ではすっかり塗り替えられて、ダビデの星もくっきり書き直されているようだけど、
どっちにしろ28年前のも、途中で立て代えたり書き直したりしたに違いないですね。


明日はこのあと行った秋田の黒湯温泉の記事にしましょう。と、予告。


空飛ぶ円盤記念日

2006年06月24日 21時19分39秒 | 豆知識
きょう、6月24日は知る人ぞ知る、 『 空飛ぶ円盤記念日 』です。

どういうことかというと、
1947年のこの日にアメリカの実業家ケネス・アーノルドが、
自家用機でワシントン州カスケード山脈付近を飛行中、9つの光る物体と遭遇しました。
コーヒー皿が飛んでいるようなその物体を、アーノルドは「フライング・ソーサー」と公表しました。

それ以後いわゆる未確認飛行物体を「空飛ぶ円盤」と表現するようになったことを記念し(?)
6月24日は『 空飛ぶ円盤記念日 』 もしくは 『 UFO記念日 』 と なりました。

ちなみに、私、小学校6年生のときにUFO研究会を作り、少年キングの文通コーナーで会員募集して何人か手紙を戴きました。

高校時代にはUFO研究界では有名な荒井欣一氏の御自宅に単身でお邪魔し、
お話を伺いました。
娘さんが私と同い年だったこともあってか、お忙しい方なのに、いろいろ資料を見せて戴いて、お話してくださいました。

そのとき、荒井さんの言葉で一番印象に残ったことは、
「英語は大事ですよ。英語を勉強しなさい」
でしたが、私は英語はどうにも苦手。
結局このトシになって、英語ならぬ介護を少し かじりました。




※ 画像は本文とは関係ありません。

宇宙大怪獣ギララ

2006年06月23日 16時53分43秒 | 豆知識
実家を片付けていたときに見つけた、昔の怪獣映画のブロマイドです。
とてもヘン。
顔だけ合成したみたい。

この『宇宙大怪獣ギララ』をネット検索してみたら、

【1967年3月25日に公開された松竹公開の特撮映画作品、及びそれに登場した架空の怪獣。キャスト・和崎俊也 ペギー・ニール 原田糸子 柳沢真一 藤岡弘】
だそうで、怪獣ブームに焦りを覚えた松竹の、唯一の怪獣映画とか。

あるHPによると、主題歌の「ギララのロック」を倍賞千恵子とボニージャックスが歌っていたらしい。
倍賞千恵子好きだけど (ナゼに「だけど」?) 、聴いてみたい観てみたい
笑えそう。




子象物語 ~ 劇団トマト座 ~

2006年06月22日 12時00分23秒 | 芝居の話
昨日書こうと思った「猫の話」は先送りにします。(そのまま忘れるかも

三男の通う小学校は創立百周年を迎えます。
その記念行事として、昨日は小学校の講堂で劇団トマト座による、『子象物語』の公演が行われました。


内容
太平洋戦争のとき、空襲になり猛獣が街へ逃げ出さないための処置として、
上野動物園に軍部からすべての猛獣を殺すようにとの命令が届きました。
猛獣や大型動物たちのほとんどが毒入りの餌で命を落とす中、子象のトンキーだけは毒の入った餌を食べず、注射針も皮膚を通さず、頑張り続けました。
しかし、飼育係がこっそり餌を運んでいるのを軍部にみつかり、仕方なく餓死させることになりました。
それでもトンキーは命の灯をともし続けるのですが、最後は絶命します。


登場人物
動物好きの二人の姉弟、ヨシコとタケシ。(名前違ってたらごめんなさい)
動物園の園長。
飼育係の三吉。
軍人。獣医。(二役?)
そして、象のトンキー。


感想
暗く、重い話を小学生の子供たちを飽きさせることなく、どこまで出来るのだろうと思いましたが、
子供たちはヨシコとタケシの場面で何度も笑っていました。
園長と三吉の見事な音痴ぶりにも、大きな笑いが起こっていました。

会場がものすごく蒸し暑かったので、条件は良いとは言えなかったと思いますが、
劇団トマト座の方たちの演技は良かったです。
みなさん声がよく通り、活舌も良く、後ろの方に座っていた保護者にもセリフがちゃんと届きました。
さすがはプロです。

また、暗転の時間が短く、出演者自らセットを動かす工夫がされていました。
これも子供たちを飽きさせないために考えられたのでしょう。

じつは、後半では子供たちの私語でざわついたときもありましたが、それほど長い時間ではなかったと思います。
ある程度は仕方ないでしょう。
私が見たのは高学年のときの回だったので、その前の低学年対象のときはどうだったのか、わかりません。
結構、低学年の方が純粋で、もっと食い入るように見ていたかもしれませんね。

息子は感想文に、
「可哀想なのはトンキーだけでなく、ライオンやゴリラや他の動物も可哀想だ。
 上からの命令で動物を殺させた兵隊も可哀想だ」
と、書いていました。
私がちょっと言ったことを自分なりに書いたのですが。

そう。
可哀想なのはトンキーだけではありません。
みんな可哀想。
トンキーは戦争の被害者全ての象徴であり、恐くて悪そうに演じられていた軍人は、戦争そのものの象徴だと思いました。

でも、トンキーに照準を合わせ、トンキーを通じて人としての心の痛みを共感することが
子供にとって大事なのだと思います。

これは「なぜ本を読むことが大事か」にも通じることですが、そのことはまたいずれ。

しかし閉め切った講堂は暑かったなあ。
トンキー役の方、よく頑張ってくださいました。
象の着ぐるみがすごく良く出来ていたけど、中はどうなっているんだろう


   余談  

私が小学6年生のとき、日生劇場で「劇団四季」の『オズの魔法使い』を見ました。
とても感動して、なんと私の初恋はそのときに観たブリキさん
もらった薄っぺらなパンフレットを大事に取ってありました。

20代になって、テレビ関係の仕事をしていた友達の‘ヨシコちゃん’に声をかけてもらい、
昼の某番組の片隅に出してもらうバイトをしたのですが、
司会をしていらした荻島真一さんは、そのときの『オズの魔法使い』でカカシ役でした。
番組打ち上げのとき、大事に取ってあったパンフレットをお見せしたら、懐かしがってくださいました。
私が「このときのブリキさんが初恋の人です」というと、ヨシコちゃんが、
「カカシさんも好きだったのよね」とフォローしてくれたにも拘わらず、オバカな私は
「いえ、ブリキさんが好きだった」と連発してしまいました。
荻島さんは、「ブリキは役柄がカッコ良かったからな」と少ーし、憮然となさったような…。

その節は失礼しました。 (インターネットは誰が見てるかわからない。)
素顔は荻島さんの方がカッコ良いです。たぶん。(ブリキさんの素顔知らない)
今更すっかりオバちゃんの私に言われても嬉しくないでしょうけど


きっと昨日の芝居も、子供たちの一生の思い出になるでしょうね。

でも、トマト座のHP見て思ったけど、『オズの魔法使い』か『西遊記』見たかったな~。(独り言)



~~追記~~

この翌年、「オズの魔法使い」を上演してくださったのです。
でも、その日、観に行くことができませんでした。
とっても残念だったのですが。

観たかったなァ……と、なぜか最近思い出したので、追記します。

2013年9月27日


【2019/12/16追記】
ふと訪問歴を見たところ、この記事にアクセスしてくださった方がいらしたので、
追記します。
一昨年、やっと見に行きました! 
            
2017年7月22日『10年目のオズの魔法使い』 (クリックするとリンク先の記事に行きます)

カーキ色の謎

2006年06月18日 14時25分46秒 | 豆知識
いったい、色の中でカーキ色という名前くらい紛らわしい色はないのではないでしょうか。

柿色と勘違いして朱色や橙色を思い浮かべれば明らかに間違いだけど、
本当はどんな色でしょう。

今はほとんど、くすんだ緑色を「カーキ色」といっているようです。
例えば生協のカタログでも、カーキ色の服はこんな色。
      



しかし、母親は「国防色の色だから、黄土色みたいな色よ」と言っていました。
そこで、小学館の大辞泉の後ろに付いてるカラーチャートを調べると、母の言った通りでした。



ついでに大辞泉の「カーキいろ」の項目を見ると、
【カーキは土埃の意味で、元はウルドゥー語から。黄色に茶色の混じったくすんだ色。軍服などに用いられる。枯れ草色】
と、あります。

けれど、現在のカーキ色の商品は やはり皆くすんだ緑色。

ネットで調べたら、元は黄土色の軍服の色だったのが、アメリカ軍の軍服のイメージに変わってしまったという説明もありました。
日本軍は黄土色でしたね。
そのため、カーキ色でどちらの色をイメージするかは、年代で違うと書いてあるブログもありました。

それにしても、新聞の商品広告でカーキ色の鞄の写真が載っていても、白黒だからわからない。
こんなに色のイメージが違ってしまう名前を使うのは、考えものだと思います。

そういえば浅葱色って、私は薄い玉葱の色かと思ってました。
つまり、薄い茶色。
本当は薄いネギの葉の色だったのですね。
新撰組の羽織の色と言われると、「ああ」とわかりますが。

大辞泉のカラーチャートには358色まで載っています。
深川鼠、利休鼠(これは「城ヶ島の雨」の歌詞に出てきたように思いますが)、錆鼠、相思鼠なんて色、知ってました?
縹色(はなだいろ)なんて、最近 元ちとせの歌で初めて知りました。
こんな色だったのね。
   


カーキ色の謎から始まり、色の世界の思いがけない面白さに時間を費やした日曜の午後でした。

もぐらの話

2006年06月17日 13時58分20秒 | 動物や昆虫など生き物の話
本日二つ目の投稿。
ついさっき、12時くらいのことです。
長男が玄関の外で網を持っていたので、「何してんの?」と聞きました。すると、
「もぐらが川で溺れてるから助けてやる」

トップ画像が家のすぐ近くのドブ川。
水は浅いので溺れてはいませんが、困っていることは確かです。
網ですくい上げました。



土手に穴があったので、そこに入れてやったらもぐっていきました。
死んだもぐらは見たことあるれけど、生きているもぐらは初めて。
うっかりドブに落ちたのかな?

子供には「可哀相だから早く穴に入れてあげなさい」といいつつ、
珍しいので「でも、ちょっと待って」といいながら写真を何枚も撮りました。



花の妖精

2006年06月16日 17時13分50秒 | Weblog
去年撮ったチューリップの写真。
おおっ 花びらの中に妖精がっ


カールおじさん


    


今日は長男の三者面談で高校まで行っていたので、時間がありません。
昔撮った おバカな写真でお茶を濁します。

戴いたコメントが面白いから、それにお返事書きたくてウズウズしてますが、夕ご飯の支度しなくっちゃ。

また後ほどに。 

   
  
ちなみに昨日の写真、母から了解は得ましたが、
「現在の写真は絶対載せないように。コメント戴いた方の夢を壊さないように」
と、 きつーく言われました。


手術の話

2006年06月14日 20時19分48秒 | 思い出話
今日は義母の手術でした。
私は手術中は病院に行かず、チャンスとばかり、義母の家に行って冷蔵庫の中の年代物食品を片付けていました。

片付けながら、自分の手術の日を思い出していました。

    * * *

あれは8年前のこと。
背中の激痛で病院に行くと、胆石が見付かって即入院。高熱を出してウンウン苦しみ、10日後に手術となりました。

ベッドに乗せられたまま病院内を移動。ベン・ケーシーのオープニングにこんな景色を見たような。
蜂の巣のようなスポォットラァイト(大袈裟に発音)に照らされて、私は今日の主人公。
おほほほほ。

なんて余裕もそのあたりまで。
手術台に乗せられてから、医師が看護師に大声で言いました。
「おい、この機械壊れてるじゃないか」
「明日直しに来るそうです」
「それじゃ間に合わないだろぉ」

思いっきり不安になった私は、近くにいた看護師さんに、
「あのぉ、大丈夫ですか…?」と聞きました。
「大丈夫よ」と言われたけど、やはり不安のまま、手を拘束されて麻酔。
「いーち、にー、さーん」 がくっ。

このときは流産の処置のときと違って、夢は見ませんでした。

目覚めたときの痛みたるや、ものすごかったです。
麻酔がちゃんと効いてなかったんじゃないかと、今振り返っても思うくらい。

激しい痛みの中で、真っ先に思ったことは、切腹した武士ってスゴイということ。
これだけの痛みを自分で作り出して進めちゃうんだから、並大抵のことではありません。

初めはただ「痛い」と言っていましたが、それも面白みがないので苦しい息の下から看護師さんに、
「わ、わたしは…今後なにがあっても……切腹自殺だけはしません……切腹がこんなにも痛いとは…」
と報告しました。
すると、あっさり切り返されました。
「縫ってあるだけマシでしょ」
まあね。

    * * *

夕方、手術を終えた義母を見舞いに病院に行きました。
転移もなく、わきの下のリンパも大丈夫。
それに、私の時よりは手術後の痛みがなさそうでした。良かった。


【 手紙  ~古い柱時計からの便り~ 】

2006年06月12日 13時30分26秒 | 自作品
昨日、亜無さんから戴いたコメントにあった自作の小説をアップします。
これはポプラ社の「作品市場」に出品したものです。
「作品市場」は今月20日で終了します。

         

作品ジャンル:一般小説 / 大人の童話 テイスト:-しみじみする-

作品PR:
実家の元・自分の部屋を片付けていたら、詩や短編小説を書いた若い頃のノートが出てきました。これはその中の一つ。ところどころ細かいところを直した以外、そのままです。日付によると、20歳のときの作品。今だったら書けないし、書いたとしても結末は違っていたでしょう。


         

 
【 手紙  ~古い柱時計からの便り~ 】

ある真夜中、私はおかしな声で目が覚めました。
いえ、覚めたといってもパッチリ目が開いたわけではなく、夢の続きのような心地で話を聞いていました。

「ねえ、はじめまして、ってのはどうだろう」
「いや、まずいねえ。だって毎日顔を合わせているもの」
「じゃ、やっぱり拝啓かしら」
「固くなってもいやだしね」
「前略がいいんじゃないかな。僕はよくそれを書かされるようだ」
「何を略す必要があるんだい? もともと私は挨拶する必要もない」
「親しき仲にも礼儀ありさ」
「略さなければ、何と書くのだろう」
「そりゃ、お天気の挨拶やら、ご機嫌伺いやら」
「ああ、そんなものは、どうでもいいんだよ」
「でも、書いておくとまとまるし、書き出し易いんだよ」
「まずいねえ、まずいねえ。まるで無能な時計と思われてしまう」

しかし、結局は前略を用いることになったらしく、翌朝、私の机の上にはこんな手紙が置いてありました。



前略
わたしは時計です。
あなたの部屋に掛かっている、壊れた柱時計です。
突然こんな手紙を出して、失礼しました。
でも、どうしようもなく苦しいので、あなたの机の上のボールペンと紙に協力を頼んで、手紙を出すことにしたのです。
(時計は毎晩うなされていた。*ボールペン注)

壊れた身体が苦しいわけではありません。
壊れていながらも、尚、部屋に掛けて下さるあなたのお気持ちは嬉しく思います。
代々あなたの家系は情に篤いようですね。わたしの知る限りでは、あなたのおじいさん……
いえ、古い話です。関係のない話です。

とにかく、わたしは自分を幸せだと思っていました。
部屋の中に流れ込む春の光に喜び、
湧き上がる夏の雲を窓の外に見て感動し、
舞い込んだ秋の枯れ葉の踊りに笑い、
冬のストーヴの暖かさに、しみじみとした幸せを感じていました。
自分に与えられるものは、全て神が選んで与える幸福であると心から信じきっていました。
その信念は生まれた時からあったように思います。
きっとそういう性質だったのでしょう。

それが、ひと月前の台風の日でした。
覚えていますね? 
直撃ではなかったけれど、かなりひどい被害の出た、あの台風です。
その日はまだ午後の二時だというのに暗くなり、道路に人影はありませんでした。
雨は降っていなかったのですが、風がひどく吹いていました。
わたしは部屋の中という安全圏で、楽しく窓の外を見ていました。

ひとつの風が窓を叩きました。
別の風は電線を唸らせて過ぎ、別の風は樹の髪を振り乱させて吹き過ぎました。
しかし、窓を叩くその風だけは、吹き過ぎることなく叩き続けました。
風くらいではびくともしないはずの窓をゆすり、叩き続けました。
わたしは奴が窓を破ろうとしていることがわかりました。
久しぶりに大声で笑いました。
馬鹿な奴。馬鹿な奴。
おまえごときにその窓が、破れるはずがないではないか。

笑っているうちにも風は真っ赤な顔をして窓にぶつかり続け………
ああ、覚えているでしょう?
窓ガラスが砕かれ、部屋がめちゃくちゃになり、わたしが柱から落とされたあの日を。

あの時の恐怖は忘れられません。
風が勝ち誇った顔で入ってきた時、わたしは凍りつきました。
信じられないものを見たときの時計の顔を見たことがありますか?
もしあなたが居たならば、文字盤が恐怖に引きつっているのを、ほんの一瞬見たことでしょう。
同時にわたしは柱から落とされて気を失いました。
(その時紙は飛ばされ、僕は転がった。*ボールペン注)

しばらくして意識は戻ったものの、わたしのショックは消えることはありませんでした。
窓を破るなんてことは、彼に与えられた仕事ではなかったはずです。
そして破ったところで、どうだというのでしょう。
いえいえ、土台、破れるはずはなかった。
しかし、あの風はやり遂げました。
部屋に入ったときの、彼の得意顔…! 
あれが未だに忘れられないのです。
あの、崇高な輝きに満ちた顔が。

それ以来、わたしは憧れてきました。
風だけではありません。
世の中全ての「熱い生き方のできるもの」に。
何をしても幸福だった、何もしなくても幸福だったわたしが、不安を覚え始めました。
何かしなくてはいけない、と。
自由なこと、何の利益にもならないことに情熱を傾け、命を懸けるには年をとり過ぎました。
せめて他の役にも立てればよいのですが、壊れた時計など何のお役にも立てますまい。

もう四季を眺めるのも苦痛です。
ほがらかな春の光がわたしを脅かします。
夏の入道雲がわたしを責め立てます。
おどけた秋の枯れ葉がわたしをからかいます。
冬のストーヴの熱にわたしは凍らされます。
ああ、きっとそうなるに違いありません。

お願いです。わたしを捨ててください。
鉈でメッタメタに切り刻んで捨ててください。
もうこの部屋に居るのも苦痛です。
本当に、本当に、一生のお願いです。

これがわたしの願いである証拠に、今晩七時に、力をふりしぼって鐘を一つだけ鳴らします。
本当は七つ打ちたいのですが、無理と思われますので一つだけ鳴らします。
(これは僕が約束させた。後で殺しの疑いをかけられたら僕が困るもの。*ボールペン注)

それでは何とぞ、よろしくお願い申し上げます。
 
                早々

山嶺 花子様




その夜の七時に、私は確かに柱時計が時を打つ音を聞きました。
ひとつ、ボォーンと鳴り響き、その後、ふたつめを打つためのキリキリキリという音はしたのですが、それきり止まってしまいました。
私は、「よし」といって時計を抱え、未だダルマストーヴを使っている友人の家に行きました。
そして友人に詳細を告げる前に鉈を借り、時計を叩き壊して砕き、ストーヴにくべました。
とても暖かな炎が燃え上がりました。
せめてそうしてやることが、時計にとって最も良いことだと信じて火にあたりました。
煙突から出た煙は、満足げに空に昇っていきました。
これが自分に与えられた、一番の幸福な道だと信じて昇っていったことでしょう。

私は善いことをしたつもりだったのですが、ダルマストーヴの所有者である友人に手紙を見せると、こんなことを言いました。

「彼の次の手紙が見たかったよ。
そんな事情があると知っていたら、僕は止めたのに。
彼は、時計である間に、もっと他のことが出来たと思うよ。
親身に話あってあげれば良かったね。
彼は影響を受けるタイプの時計だったみたいだからね。
純粋な心を持つものは、しばしば自分を無価値と思い込み、行く末の判断を誤るものだからなあ」

友人は、ストーヴに残った灰をかき出しました。

                         
 おわり