峰猫屋敷

覚え書と自己満足の場所

ムーミン谷

2007年05月30日 14時25分36秒 | 最近の出来事

花粉症がぶり返したのか、風邪なのか、一昨日の晩から調子悪いです。
こんなにボーッとしてるんだから熱があるに違いないと思って体温を測ったら、
36.3℃。
なんでガッカリするんだろう。

さて、まゆまゆ様のブログコメント欄で、ムーミンの話題が出てきたので、
埼玉県飯能市にある 「あけぼの子どもの森公園」 に行ってきました。
ここは別名、「ムーミン谷」 といいます。
(体調悪いくせに、遊びには行ける


トップ画像はムーミン屋敷。
屋根には草花が咲いてます。





中は……




掃除してたから、メインダイニングを撮り損なった。
今日は平日だし、午後から雨の予報のためか、とても空いてました。



山の斜面には、素敵な橋が架かっています。





ムーミン屋敷とは別に建っている 「森の家」 では、



本が読めるようになっています。





キャラクターの説明がありました。


やっぱりスナフキンは恋人止まりの男なのよ。



ムーミン屋敷の上の斜面を通ると、木の砦?がありました。


子どもが小さい頃は、こういうの好きだった。



上からぐるりと回って、下の水浴び小屋へ。




通って来た山道の方に向けて、看板がありました。


遅いよ…。


昨日トイレに入ってたら、今年一番のカッコーの声を聞きました。
季節を感じる…と思いながらも今、
「トイレに入っているときに聞いた」 のあたりに何かツッコミが入るかしらん…
と漠然とした想像を廻らしています。



      5/31 追記 

何年か前に、ムーミン谷入り口のショップで買ったエプロンです。
このほかムーミンママもあったけど、私はニョロニョロが気に入りました。



父方の祖母の話

2007年05月24日 11時12分55秒 | 実家の話

父方の祖母は昭和26年10月25日に63歳で亡くなりました。
私の生まれる前に亡くなった祖母であり、写真でしか知らないのですが、
先日、その一周忌である昭和27年に、身内と親しかった方だけに配られた
追悼の小冊子を初めて見ました。

口絵には、祖母の冥福を祈るために高木古泉画伯が描いて下さったという、観音像。
たしか、引越しの最終日に発掘した絵の中にありました。




そして、三枚の写真。




追悼文は祖父、伯母たち、父、従姉妹、他親戚、祖父の仕事上のお付き合いのあった方たちなど多くの方が書いていますが、
「賢かった」 「優しかった」 「美しかった」 などは、追悼文なんだから孫として割り引いて読むとしても、「質素であった」 という部分は素敵だな と思いました。

追悼文集の中には、祖母の少女時代からの友人の言葉を父の従兄弟が聞き書きしているものがありますが、
明治時代の田舎の少女たちの生き生きとした様子が垣間見られます。
長くなりますが、その文章のほぼ全文を転記します。


(註・祖母は伯母宅の養女となり、祖父はさらに婿養子となった)

【幼き頃のサヱさん】  永松すま氏 述

 私とサヱさんとは幼い頃からの親友でした。
当時私たちの家は福岡県三池郡駛馬村馬込にありました。
今では大牟田市に編入されましたから、すっかり変っている事でしょう。
 サヱさんは母の胎内にいる時分から既に今の西さんの家の養女か養子になる約束だったのですよ。
私達の子供の時は、私の家が高い丘の上にあり、サヱさんの家がすぐその下の低い所にありましたので、私達はほんとに幼な友達でした。
その当時 - 昔はネ、「サヱさん」 と呼ばないで 「西さんとこのオンゴ、オンゴ」 と呼んだもんです。
(註、オンゴとは方言でお嬢さんと云う謂なり)

所が私達は淑やかなお嬢さんどころか凄いお転婆でしてね。小学校時代から夏なぞ近所の小川に女だてらに泳ぎにばかり行きましたよ。
頭に手拭をかぶって、毎日泳いでは、それから近くの畑へ行って、着物を汚したり、まっ黒になったり、畑でブブン貝を拾っては、その貝でおはじきをしたり、「ナンコナンコいくつ」 なぞして遊んでばかりいたのでサヱさんのお母さん - そうそう、今年、八十八歳になったあの御隠居さん - が未だとても若くてね、しょっちゅう髪を まげ に結うて、色の白い肥えたきれいな人でしたがね、そのお母さんに、「あんたがたは男の子のようだ」 と云って叱られたもんですよ。
私達の子供の時分は小学校は四年で卒業でした。それからは高等学校だったのですが、私達の村は、何しろ凄い田舎でしょう。
山もあり、畑も、田圃もあり小川の水がきれいに流れていてね 遠くの山が遥かに見えて、そして暖国的な雰囲気と環境に包まれた よく言えば、とても平和なのんびりした田園ですが、その代わり高等学校なぞ村にないので、止むを得ず一里位遠い大牟田まで通学を余儀なくされたのです。
私の村が大牟田に合併したのは、私達が二十歳の頃です。

 さて大牟田の高等学校へ進学したお友達はえー、私とサヱさん、カズさん、ハルさん、ユキエさん、キヨカさん、ノモさん位のものでしたよ。
私達の十二、三の頃はね、髪は 「桃割れ」 と云うのに結いましてね (口絵写真参照を乞う) 
縞の袴 - 大てい海老茶 - でしかも、みんな自宅で織ったゴツゴツした袴でございました。
所が、その大牟田の学校の往復がまた大変なんです。
雨の降った時は下駄に袴でしょう、今のようにゴム靴なんて、シャレたものは無いんですからね、みんな下駄をぬいで はだし なんです。
ランドセルもかばんもないのですから、皆、風呂敷へ本もお弁当も包んでね、帰りには空の弁当箱がガランガラン音がするのよ。
その荷物をお互いに友人に持たせようとしてね、順々に交替で持つのです。
何時交替するのかと云うと、「馬の糞」 に出会うまでが荷物運びの当番になるのです。
そしてやがて川の所に来ると、荷物はほおり出して水あびをしたり、お腹がへると、近所の百姓の畑のさつま芋をほじって来て、川で洗って、キュウスに入れ、川端へカマドを作って、煮たり焼いたりして、
それでも、そのお芋を 「仏様に上げるのだ」 と言い乍ら その実みんな、自分達で食べてしまうのです。
お芋どころか茄子などちぎって来て、口の周囲をまっくろにして食べたりしたもんです。

 当時の校長さんは岩井先生と言う方で、とても立派な先生でした。
サヱさんはその時分から頭がよくて、学校の成績も非常によくって、性質は温厚でした。
学校は朝九時十五分に、はじまるので、毎朝一里の田舎道を駆け足で行ったんです。

 あの頃の思い出などはとても懐かしいですよ。
それが東京でお互いに暮らすようになるなんて、私はサヱさんとは、全く因縁が深い間柄です。
それも大正十二年の震災後、(略) 馬橋のお宅を訪問したのが三月三日でした。
大牟田の高等学校を十五歳の時に卒業してから、まあ、何十年振りの再会でしょう。
以来、私は毎年三月三日にサヱさんちを訪問するのを年中行事にしていましたのに、そして私が訪問する毎に帰りには必ず省線の駅まで送って下さったサヱさんだったのに、私を残して急に死んでしまうなんて、私にはまるで夢のようです。

 十月二十五日に電報が来て、驚いて私がかけつけた時に、サヱさん!、奥さん!と大声で呼んだら眼を一パイあけて、うなづいたようでしたけれど、それから十分位でとうとう死んでしまいました。
私はもう三十分も早く行きたかったと、今でも残念です。
 でも、サヱさんはやっぱり運のよい人ですよ、立派な旦那さんのお蔭でさ、あんな立派なお葬式をやって貰ってさ、だから今ごろは極楽浄土に行っているでしょう。

 思い出はつきませんが、私にとって、嬉しいことは、数年前、奥さんが郷里の九州へ行かれた時、大牟田の私の妹の家を訪ねられて、一と晩泊まられたと云うので、帰京されてから、私にお礼を言われたのが、私達の子供の時代から死ぬまで、終始変わらぬおつきあいした深い因縁の私達の間で私が仏前に供えるせめてもの思い出となってしまいました。

≪ 速記・文 土屋利保氏 ≫



この祖母の描いた絵を、去年の11月3日の記事 『父方の祖母の絵・人体解剖図』 に載せました。


デジカメ練習

2007年05月16日 13時17分47秒 | 最近の出来事

去年の誕生日から欲しかったデジカメを、1年2ヶ月してやっと買いました。

マニュアルなど読まないという人も多いから、テキトーにイジればわかるかと思ったら、
撮れない、わかんない。

昨夜、途中までマニュアル読んで、やっと撮ることができました。
SDカードの初期化をしてなかったのでした。



午前中に郵便局に歩いて行ったとき、デジカメ持って試し撮り。
トップ画像はさっき撮ったものですが、いつまで鯉のぼりだろう。


マクロ撮影設定でパチリ。
        





川にかぶさるように生えている木。そこから垂れ下がる枝。
        





これは昨夜の試し撮り。
    

  なにさ






トトの散歩風景

2007年05月14日 14時23分42秒 | 動物や昆虫など生き物の話
とくに記事にするほどの話じゃないんですけど、トトの散歩に行くときの話。

トトは道に出る直前に、右見て



左見て、



「どっちに行こうかな」 と、しばらく考えたあと、その日の散歩方向を自分で決めます。
私が 「こっち行こうよ」 と引っ張ると、
「何であんたが決めんのよ」 みたいな顔されます。
飼い犬としては、結構 ヤな女です。


明日は家庭訪問なので、掃除三昧します。


           


【子育て悩み相談】

三男が、将来なりたいものは、「子泣きじじい」 だそうです。
どうしたら なれるでしょう。
親としては子どもの夢をサポートしてあげたいという気持ちもあるし、
また、そのような世界は地に足が着いていない感じがするので、不安でもあります。

家庭訪問のとき、先生に相談してみようかしらん。


赤い橋

2007年05月07日 13時03分32秒 | 最近の出来事

今年もゴールデンウイークが終わりましたが、とくにどこへも行きませんでした。
連日の次男の部活のための早起きで体調を崩したのか、
昨夜はアレルギー性の(たぶん)咳が続いて眠れませんでした。
一息ごとに胸からコポコポだのヒューヒューだのと音がして、意識せずに呼吸していた有難さを実感。
今は落ち着いています。

トップ画像は亜無さんのHPにも前に出しましたが、フタの開いたランドセルに寄り掛かるトト。
トトはこのくらいの高さのものに胸を乗せるのが大好き。
私の枕も取られます。
アレルギー、あんたが原因か
(いつもだから、たぶん違う)


もう1人(?)、赤い橋に寄り掛かっていた後姿を激写。
   ふ~しぎ~な 橋が~ こ~のま~ちにあ~る~
       渡った人は~ 帰らない~  
             (詞・北山修 歌・浅川マキ 『赤い橋』 より) 

幾度もの生死の境を彷徨った彼の背中には哀愁が漂います。

               





今日は18年前に初めて子どもを産んだ記念日です。
分娩台に上がる前の数時間と、分娩台の上の3時間。
あんときも苦しかったな~。

あのとき、私は母親として強く生まれ変わったのだから、昨夜のアレルギーでまた何かに生まれ変わらないかしらん。
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