峰猫屋敷

覚え書と自己満足の場所

正しい犬の飼い方

2006年05月31日 16時53分07秒 | 動物や昆虫など生き物の話
犬を飼う前、私は本を買って犬の飼い方を勉強しました。

散歩のときは、常に左を歩かせて、先に行かせない。
主導権は飼い主が握らねばならない。

これを読んで、その通りになってない飼い主を見ると
「おほほほほ。しつけがなっちゃいないわね」 と、軽蔑しました。

今、うちの犬は 散歩に出かけるとき綱を咥えて私を引っ張り、
「グズ! さっさとしてよ!」 という目で振り返ります。
私の右でも左でも、ウロウロ先を行きます。

また、急に立ち止まったかと思うと、
「例の、やるわよ」 という目で見上げます。
その目をされると、私は
「位置について……ヨーイ、ドン!」
と、掛け声を掛けさせて戴き、一緒に走らせて戴きます。
私が犬に勝ってしまうと、犬はピタリと立ち止まって、
「やり直し」 という目で見られます。


トップの画像は、うちの犬の得意技 「これが欲しけりゃエサよこせ」 です。
手元をよーく御覧ください。
   


三男のお気に入りの人形です。

こういうとき、独特の表情で私を見つめます。
「まだ気がつかないの? いつになったら おやつ寄越すの? 噛み砕いてやろうか?」

バウリンガルなど無くても、彼女の言葉はわかります。
はい、すみません。いいものあげますから、それだけはお許しください。


犬の飼い方の本でしっかり勉強した私は、
犬に主導権を握って戴いている忠実な飼い主と成り下がりました。

だから太るんだわよ。


今朝の話

2006年05月30日 17時44分48秒 | 最近の出来事
コメントの中で、私がいったい何歳か、という話がありましたが、
それについては何年も前に見た『長七郎江戸日記』の一場面から
お返事させて戴きます。

当時、既に50代と思われるの里見浩太郎氏扮する長七郎に、
年配の女性が「もう嫁をもらったらどうか」という話の流れの中で言いました。
「そなた、いくつになられた」

すると長七郎、こう答えました。
「とうに三十路は越えました」

このセリフを妹と聞いていて、のけぞりました。
たしかに嘘じゃない。
でも、、、ちっと図々しくなあい?

しかし便利なので、私も使わせて戴きます。
「峰猫さん、いくつになられた」
「とうに三十路は越えました」


 

後半の記事を削除した関係上、一部コメントが本文と噛合わなくなりました。
申し訳ありません。

大黒様の話

2006年05月29日 10時41分04秒 | 不思議だったり、そうでもなかったりの話
昨日は実家に行ってきました。
母方の祖父母の代からの家なので、物が山ほどあります。
しばらくしたら引越しする予定なので、片付けなければならないのですが、
昨日は父の御守りコレクションだけ少し整理してきました。
(焼け石に水)

父は御守り袋を自分で手作りしたり、紐を付けて日替わりで首に下げるのが趣味でした。
それも仏教・神道・キリスト教・ヒンズー教(?)・その他怪しげな神様みたいなのが混然と。
ある意味、視野が広い? それともいい加減?

中には、よくこんな不気味な物や重いものをぶら下げたもんだと思う物も。
         


父は七福神なども好きでしたが、この掛け軸にはこんな秘話が。
         


ある日、父の夢に大黒様が出てきたそうな。
大黒様が、自分の目の前にワッとかぶさってくる夢だったそうです。

父は生前、世田谷のボロ市に欠かさず行っていました。
その日だったか、しばらくしてだったか、ちょうどボロ市の開かれる日だったので行ったら、
路上で掛け軸を売っていたそうです。
丸めたまま、山のように積んである中で、
「これだ」と感じるものがあったので、広げてみたら、
まさに夢に出てきた大黒様だったとか。
それがこの掛け軸ですって。
父は結構ヘンな人でした。

なお、トップの画像は母方の祖父が大事にしていた大黒様の彫刻。
昨日もらってきて、次男の部屋に安置しました。
次男は趣味が、私や父に似てるかも。


2015.11.24 追記
ふと思い立って調べたところ、大黒様の作者は たぶん、田辺力弘氏という方ではないかと思います。
(裏に「力弘 作」と記されている)
また、「贈 鈴木孝昌」とありますので、その方から頂いたものでしょうか。
(敬称がないので、贈った方の名前かと思います) 

カタログのツボ

2006年05月27日 13時41分23秒 | 街で見掛けた面白い物や話
これは、1年半~2年前の、生協のカタログチラシです。
面白かったから画像を保存しときました。
品物は、携帯用イヤホンマイク。

ここをご注目ください。
        


ええ?
電話しながら「料理」はともかく、「読書」はマズくな~い
相手の話を聞いてないことを前提としてるでしょ。

電話の相手は自慢話を延々とする友達?
それとも姑?
いろんな想像が広がりました。

猫の話 6 ~ 猫のいる食事風景 ~

2006年05月26日 11時37分38秒 | 動物や昆虫など生き物の話
だいぶ前に絵は画いてあったのですが、後出しにしてました。
もったいながるほどの絵じゃないけど。


さて、猫がたくさんいると、食事時は大変です。
最初からきちんと躾のできている猫はいいけど、ちょっと甘やかして おかずをあげたことがあると大変。
当然の権利と言わんばかりに彼らは要求してきます。

我家は躾ができてませんでした。

とくにおかずが刺身のときは悲劇。
にゃんにゃんにゃんにゃん攻め立てられて一切れあげると、
「ずるいずるい、こっちにも」
と、また別のがにゃんにゃん抗議する。

そこで今日の画像は、ある日の刺身のおかずのときの我家の食事風景。

猫たちを廊下に追い出し、戸を閉めました。
この戸ですが、下半分は板張りでしたが、上はガラスが縦に二枚くらい入っていました。
下の方のガラスが割れたので、過ぎたカレンダーを一枚貼り付けてありました。

さて、戸を閉めていよいよ食事というとき、外では猫たちが、
「なんかおかしいぞ」と騒ぎました。

ドンドンガリガリ、入れろ入れろ、にゃあにゃあ、ずるいぞ。

私たちは、それっ、今のうちだ食べろ
と食事を始めましたが、
そのうち猫が戸の上を狙い始めました。
ガラスが割れてしばらくは そのままにしておいたので、
前は戸が閉まっていると飛び越えて上から入る猫もいました。
その記憶があったのでしょう。

最初はあえなく玉砕していたようですが、何度目かにカレンダーが破られ、
猫が飛び込んできました。
ギャーーッ キターッ

猫側ではこんな感じ
           



茶の間は次々と飛び込んでくる兵士たちにより、戦場と化したのでした。

ペットの躾は、最初が肝心。
くれぐれも気をつけましょう。


しかし学習能力が無いので、今飼ってる犬はデプ。

鉄の橋が掛かったら

2006年05月25日 10時38分10秒 | 不思議だったり、そうでもなかったりの話
弘法大師伝説で、こんなのがあります。

昔、讃岐の国で狐を調伏した弘法大師、狐に向かって言ったとか。
「汝等しばらくこの地から去るべし。」
すると、一匹の古狐が反問した。
「しばらくって一体何時頃までですか?」
「鉄の橋のかかるまで。」

瀬戸大橋が開通したのが、1988年4月。

四国を日本の雛型と考えたとして、
(日本を世界の雛型とするほど形は似ていないけど)
この頃から不可解な凶悪犯罪、
連続殺人事件などが頻発してきたように感じるのは、こじつけでしょうか。

じつはこれ、瀬戸大橋が作られることをニュースで報道されたときに、
今は亡き父が弘法大師伝説を思い出して心配していたことでした。
「昔は鉄の橋が架かるなんて有り得なかったから言ったのかもしれないけど、
 本当に鉄の橋が架かるんだなあ」 と。
もっとも父は逆に覚えていて、四国の狐が本州にやってくると心配してたような気もします。

戯言として読み流してくださいね。
本気で思っているわけではないので。


画像は青梅・薬王寺の弘法大師像。
たまたまこの前のゴールデンウィークに行ったとき撮ってきました。
使えてラッキー

2006年 金田一さん! 出番です。

2006年05月24日 15時32分59秒 | ○○展の話
今日は午前中、仕事でした。
ロッカールームで看護師さんに会ったので、一昨日転倒した利用者さんの様子を聞きましたが、
その後全然異常なしとのことで、ホッとしました。C=(^◇^ ;


さて、今日は仕事の後、前から見たかった狭山市立博物館の企画展を見に行きました。
画像はもらったパンフレットなんだけど、カラーで載せようと思ったらサイズが大きすぎて(?)ダメだったので、白黒にしました。
こういうのはプログで使っていいの?
自分の作品のようにして盗用してるわけじゃなくて、宣伝になるからいいかな?


『金田一さん! 出番です。~博物館で楽しむ横溝正史~』

子供の頃から、江戸川乱歩や横溝正史の世界が好きでした。
独特で異様な世界。
トリックや話そのものより、その雰囲気が好きです。

平日の狭山市立博物館は空いていました。
『獄門島』の一場面、地面に伏せられた大きな釣鐘をテコを使って開けてみたら、
着物姿の美女の死体が…
という情景を、マネキンを使って再現。
その横にも、着物の美女マネキンの死体が仰向けに横たわっていました。

静かな館内には、『悪魔が来たり笛を吹く』のフルート曲が流れ、ちょっと異次元空間。

展示されている小説の表紙絵はエロチックで美しく、ふと、ガラスに映った自分の顔と比べてゲッソリ。
いえ、例えどんなにエロ美しくても、死体になったり事件に巻き込まれるのはイヤですけど。

昔は殺人事件は特別に異常な出来事でした。
それこそ小説になるような。

ここ数年の現実社会での猟奇的な殺人事件の多発は、いったいどうなっているのでしょう。
小説の世界より現実の方がよっぽど怪奇。
金田一耕助が今いたら、むしろ世の中がイヤになって世捨て人になるかも。
解決しても解決しても事件事件事件。
まさにザルで水を汲むようです。

日本がこのような異常事態になった背景には、ある出来事が!!
次回、なんちゃって大胆推理を展開しようかなあ。


初めて書いた 事故報告書と退職願

2006年05月22日 20時55分52秒 | 最近の出来事
今日は私の不注意で、利用者さんが転んでしまいました。
初めて事故報告書を書きました。

書き終えて、上司に報告書と同時に退職願を出しました。
用意良すぎっ
行動早っ

違います。
私事都合により、出勤前に書いて持って行ってました。
上司には既に話してありまして。

利用者さん、怪我はしなかったんだけど、自分のドジがショック。
申し訳ない気持ちでいっぱい。

6月末で退職します。

役に立つ! 生活豆知識

2006年05月21日 14時48分56秒 | 豆知識
【易しい小バエの取り方】

みなさま、こんにちは。
5月も下旬に入り、虫が多くなってまいりました。
そこで今日は、易しい小バエの取り方についてお勉強します。
まず、ご用意していただくものは、

  1. 石鹸 (固形でもよいが、液体の方が早い)
    2. 無心
    3. 水を張った洗い桶

この3つでよろしゅうございます。

台所で料理しているときや食器を洗っているとき、小バエが目に付くことがございますね。
そんなときは、小バエの位置を確認しながら、
手に1.の石鹸を泡立てます。

このとき、2.にご用意して頂きました「無心」。
これが大変重要になってまいります。
小バエに殺意を察せられると、なぜかどこかに姿を隠されますです。

さて、無心のまま泡だらけにした手を、
繊細、且つ大胆に、小バエに近づけ、んぱっと空中で掴みます。
泡がないと手の中をすり抜けることもございますが、
泡があることで小バエは手にくっついてしまいます。
どこかに止まっている場合は、泡の付いた指をそっと近づけても効果がございます。

小バエを掴みましたら、
次に、3.の「水を張った洗い桶」に手ごと入れて水の中に放します。
小バエが浮いてジタバタしなくなったら、さっと排水口に流すだけ。

ご注意して頂きたいことは、
この方法で取るのは、小バエだけにして頂きたいということでございます。

蚊は石鹸付けてる間に首筋や足から、ちうちう血を吸われますし、
ゴキブリには有効でないばかりか、手で掴もうってこと自体恐ろしゅうございます。

          

合掌。

自作の靴棚

2006年05月17日 16時52分15秒 | 自作品
先々月頃の話ですが、風呂用の木のスノコを取り替えたので、
その廃材と少し木材を買い足して靴棚を作りました。
これがまた、良い出来栄え
うっとり。(自画自賛)

棚を斜めにしたから、奥行きが小さくても大人の靴がちゃんと乗ります。
近くで見ると釘が曲がっててヒドイ出来だけど、
パッと見たところ、この家の、いかにもドン臭そうな主婦が作ったとは思えまい

・・・・・・・・・・・
いえ、いいんです。
自己満足とはわかっています。

主婦の仕事なんて、ザルで水を汲むようなもの。
時には、こんな風に形に残るものを作りたくなるのです。

そういえば昔、子供のハロウィン用の衣装を作ったとき、同じセリフを言ったっけ。
「いつもザルで水を汲むような毎日だから、物を作るのは嬉しいの」って。

それを夫のやつ、義母に、
「峰猫さんはザルのような毎日だから、たまには何か作りたいんだって」
と言いおった。

違うだろ。
ビミョーに違うだろ。

  


『生まれてくれてありがとう』応募文

2006年05月16日 11時45分28秒 | 自作品
去年、ポプラ社で『生まれてくれてありがとう』というテーマでの作品募集がありました。
どうしようかと迷いましたが、私の作品にいくつか装丁をデザインして下さったMilkyさんが企画したというので、
ギリギリでメール応募しました。
私の作品は採用されませんでしたが、ここに全文を載せます。
私にとっては貴重な体験を綴った内容です。





『宿ってくれてありがとう』

 私のお腹に初めて命を授かったのは、20代の最後の年。私と夫はもちろんのこと、それぞれの両親も大喜びでした。
 実家近くの産婦人科で何度か診察を受け、医師が首をひねり始めたときも、新しい命の誕生を疑いませんでした。

 ある晩、夢を見ました。お腹から何かが抜け出ていってしまう夢。
 翌日、義母に
「赤ちゃんが出ていっちゃったかもしれません」
と、冗談半分に言うと、義母は笑いながら、
「そんなことあるはずない」
と答えていました。
 そして次の診察のとき、医師から3ヶ月になるのに心臓も出来ていないことを告げられました。
 この子は生まれることができないというのです。
 ボンヤリした頭で病院を出て、実家に戻ると堰を切ったように母の前で泣きました。

 間もなく大出血があり、入院。翌日に手術。
 全身麻酔を受け、私は眠りに落ちました。
 麻酔の夢の中で、なぜか俳優の中井貴一さんに似たアンドロイドが現れ、
「人間の身体は機械のように精密なものだ。精神の力だけではどうにもならない」
と、言われました。
 次に、カプセル状のエレベーターのような乗り物で上下に移動し、そこから下りると、私はガラス張りの部屋のようなところの前にいました。
 そこは、「生命」の字のつく部屋でした。その中に「何か」があり、私はそれをじっと見ていました。
 そのときの私には「私」という意識はなく、ただそこにいてそれを見つめていました。
 そのうち、誰かに揺り動かされました。

「起きてください。手術は終わりましたよ」
 看護婦さんの声でした。
 意識が戻ると同時に、私の脳裏に今の自分の記憶が、どこからか飛んで来ました。
 それはまるで、何枚もの薄い鉄板が強力な磁石に吸い寄せられるように、ペタペタと私に貼りつきました。
 一枚一枚の鉄板に、自分の名前、住所、今の状況などが書いてあるようでした。
 私はその記憶を鬱陶しく感じました。記憶が貼りつく前の自分が心地良かったのです。
 後からできた情報及び、悲しみや執着。それらが一切削ぎ落とされた、素の魂の状態が。
 たぶん、命の大元に帰ったのであろう、我が子を見つめていた時間が。

 その後、私は3人の子供を授かりました。人間の形に生まれ、心優しく育ってくれている3人の子供たちが愛しいのはもちろんだけれど、この子への愛情と感謝も、私は忘れたくありません。

 この企画を目にしたとき、テーマの主旨とは違うと感じながらも思い出し、書きたくなったのは、私の最初の子である、生まれることのできなかった子のことでした。

 一度は私に宿ってくれてありがとう。
 今どこかであなたが幸せになっていることを、心から願っています。

子供のいない国

2006年05月14日 18時03分30秒 | 思い出話
子供たちが小さい頃は、毎日が大変でした。
とくに長男が大変でした。
慣れない子育てに、どんどん子供がわがままになっていく。
下の子が生まれて、
「あんただけに手を掛けてらんねえ」という居直りで、かえって楽になった気もします。

それでもキーキーイライラする毎日の中で、私はある日長男に向かってヒステリー気味に言いました。
「子供のいない国に行きたーーい

そのとき長男は4~5歳でしたが、少し考えてからこう言いました。
「どこにだって子供はいるよ? だから、ここにいたら?」

かかか、可愛い~こと言うじゃありませんか。

長男のセリフの中ではピカイチの良いセリフです。

将来、彼女ができて、
「ああもう。男のいない国に行きたいわ」
と言われたら、すかさず言って欲しいですね。
「男なんてどこにでもいるさ。だから僕の腕の中にいなよ

これが、
「ああもう。あんたみたいな どーしようもないバカ男のいない国に行きたい
と言われて、
「僕みたいなバカはどこにでもいるよぉ。お願いだから見捨てないでよぉ
だと、の後、ですね。

妄想はさておき。

まあ、子育ても今くらいまで大きくなれば、だいぶ楽になりました。
別の苦労は次々に出てきますけど。

さっきテレビで少子化について報道していて、
「子育てが大変だから産まない」という若い人もいましたが、
私自身は、子供のお蔭で成長させてもらったと思っています。

いろんな事情で産めなかったとしても、それ相応の楽しみや苦労もあるから、
人が成長する方法はひとつじゃないですけどね。

今日の画像は、日本にまだ子供がいっぱいいた頃のもの。
私たち家族が夏によく行った、千葉の館山あたりだと思います。
母と、次兄と三番目の兄と、
スカート履いていることで かろうじて女の子とわかる私です。σ(o^_^o)

祖父の霊の仕業かいな?

2006年05月13日 10時25分43秒 | 不思議だったり、そうでもなかったりの話
昨日の「ちょいと不思議な話」カテゴリー収録話は、それほど不思議ではありませんでしたね。
不思議な話は大好きなんだけど、私の人生でいかにも不思議って話はあまりありません。

その中で一番不思議だったのは、大学4年生のときのこと。
卒論を書くために、神田の古本街を見て回っているときのことでした。

私の卒論は、『山岳宗教についての考察~天狗信仰~』とかいうタイトルで、
とにかく50枚書ければいいやという、写真と引用をふんだんに使ったインチキ卒論でした。

ある古書店に入ると、宗教関係の本は地下にありました。
卒論に使えそうな本を探していると、私が1歳になる前に亡くなった父方の祖父の著書がありました。

祖父は昭和前半時代にちょっと有名だった人で、何冊か著書があります。
しかし、祖父の本は宗教関係の書棚に分類される本ではありませんでした。

私は、「へえ~、とうとうちゃんの本だ」(父方の祖父のことは‘とうとうちゃん’と呼んでいた)
と思いながら手にとって見ました。

表紙の裏に、「○○○○さんへ」と書いた祖父の直筆サインがありました。

そのときは本を書棚に戻して帰りました。
自分に必要な本じゃなかったし。

家に帰ってから、父にその話をしました。
すると父は、
「お父さんは人に贈った本が売られるのを嫌がる人だったからなあ。買ってきてくれよ」
と、本代をくれました。

何日かして、私は再び神田のその古書店に行きました。
地下への階段を下り、宗教関係の書棚をくまなく探しましたが、祖父の本がありません。
決っっして売れるような本ではないので、(とうとうちゃん、ごめん
階段を上がってレジにいた若い男の店員さんに、
「階段の下に、○○○○○の本が前にあったんですけど?」と聞きました。

すると店員さんは、レジ前の列の本棚を指差し、
「その関係の本なら、そこの棚にあります」と言いました。

探してみると、たしかに前に見たのと同じ、祖父のサイン入りの本が1階の書棚にありました。
私は狐につままれた思いでその本をレジに持っていき、会計してもらいました。
そして店員さんに聞きました。
「この本、前は地下の本棚にありましたよね?」

すると店員さんは、変なことを言う人だといわんばかりの薄ら笑いを浮かべ、
「いえ、この関係の本は地下じゃありません。ずっとそこにありました」
と言いました。

気の弱い私は黙って引き下がりましたが、
そんなはず ないですよぉ
地下のあの場所になかったら、私が気がつくはずがないんだから。
とうとうちゃん、よっぽど自分の本を買って欲しかったのかなあ。


なお、今回の画像は某サイトから拝借した祖父の写真です。
モザイク モザイク
そのまま使っても誰も知らないと思うけど。


地球と宇宙を初めて知ったときの話

2006年05月12日 17時45分27秒 | 不思議だったり、そうでもなかったりの話
たぶん3歳から4歳くらいのときだと思いますが、
一番上の兄(10歳上)が、友達から自転車を買いました。
当時流行っていたスポーツタイプのドロップハンドル。
昔は新しい物が家に来ると、誰のものであれ興奮してワクワクしたものでした。
だって、電話を家に引いたのだって、せいぜいその1~2年前ですもん。
うち、4人兄妹で決して金持ちじゃなかったし。

その自転車を兄が家に持って来たとき、もう夕暮れも過ぎてあたりは暗くなっていました。
兄は、「ちょっと一回りしてくる」といって、自転車に乗って門を出て行きました。

私は、兄が走っていった道とは、反対の方向の四つ角へ行きました。
「ぐるっと回ってそっちから帰るだろう。自転車に乗って帰ってくる兄を見たい」
と思ったからです。
(幼いのに結構賢いじゃ~ん)

暗くなった住宅街には人通りはありませんでしたが、先の四つ角からこちらに来る人に気がつきました。
大きさは普通の大人の大きさ。
全身が発光した夜光塗料のような緑色に光っていました。

私はものすご~く恐くなり、それをひと目見るなり家に逃げ帰りました。
玄関には三番目の兄(5歳上)がいて、「どうしたの?」と聞くから、理由を話しました。
兄は、「もう一回見に行こう」といいました。
私は恐かったので嫌だといいましたが、兄は私の手を引っ張り、
「ぼくもいっしょに行くから大丈夫だよ。見に行こう」と、さらに引っ張りました。
私はしぶしぶ兄に付いていきました。

四つ角に行くと、もう光る人はいませんでした。

家に帰って、その話を父にすると、父は、
「ふーん。宇宙人だったかもしれないね」と、言いました。

‘宇宙’という言葉は、私には初めて聞く言葉でした。
父は説明してくれました。
「人間はね、地球という星の上にいるんだよ。地球は丸くて、宇宙に浮いているんだ。
 そして地球の外の、宇宙から来た人を宇宙人というんだよ」

私はものすごく不思議で不安な気持ちになりました。
自分がそんな不安定な場所で生きていたなんて

そのときが、初めて私が‘宇宙’と‘地球’を知った瞬間でした。

緑色に光る人は、幼い子供の目の錯覚かもしれません。
ろくに確かめもしないで逃げちゃったんだから。

でも、自分が宇宙に浮いている丸いタマに張り付いて生きているってことが不思議だったので、
今回のカテゴリは「ちょいと不思議な話」に入れました。

なお、この記憶はしばらく無くなってて、
UFO研究会を作った小学校6年生以後、中学生のときかな(?)に思い出しました。