4月21日 (土)~ 5月9日 (水)、北鎌倉の鎌倉古陶美術館にて、高橋まゆみさんの人形展が開かれています。
で、早速21日にサイン会の時間に合わせて母と三男とともに、行ってきました。
鎌倉古陶美術館は、とても風情のある建物でした。 なんでも、個人のお宅だとか。
建物の古さと、人形の雰囲気がよく合っていて、入間市博物館のときや千葉三越のときとはまた違った雰囲気になりました。
お庭も素敵でした。
人形展では、楽しみにしていた新作 「駅」 も見ることができました。
‘暇なおじさん’ さん作の、地図を覗き込む中年の登山夫婦。
この地図は、よーく見ると、真弓岳を中心に未来山、雑男(一休さん)山、章魚庵峠、空海望峠、
かたつむり(花水木さん)原、みえ湖、ひろりん村など、こちらのコメント欄にも来て戴いてる方の名前があります。 (峰猫峰も。)
そして駅で電車を待つ人々、駅員さん。
珍しく、若い男女の人形もありました。
駅で別れを惜しむ2人は、昭和初期から中期のレトロな雰囲気がありました。いいなあ。
サイン会の列の後ろに並んで順番が来ると、まゆみさんは私の顔見るなり、
「あら~」 と、嬉しそうに笑ってくれました。 顔を覚えててくれて嬉しかった~。
サイン会のあともしばらくお話させて戴きました。
お時間取らせて、すみませんでした。
母もとっても喜んでました。
人形展を見たあと、すぐ近くの円覚寺に行きました。
八重桜、牡丹、芍薬(だと思う)などが咲き、暑くもなく寒くもない陽気の中で風が心地よく、古都 鎌倉の小さな旅はいい感じ。
ウグイスの声を聞きながら急な坂道を下っていたら、母が言いました。
「この坂、ゴザかなにかでザーッと滑ったら面白そうね」
お、お母さん。 風情ってもんが……。
母が子どもの頃、祖父母は銀座で商店をしていたので、母と伯父叔母たちは ひと夏を鎌倉の染物屋さんの2階を借りて、お手伝いさんとともに過ごしたことがあるそうです。
母は久しぶりの鎌倉で、その頃のことを懐かしく思い出していました。
で、早速21日にサイン会の時間に合わせて母と三男とともに、行ってきました。
鎌倉古陶美術館は、とても風情のある建物でした。 なんでも、個人のお宅だとか。
建物の古さと、人形の雰囲気がよく合っていて、入間市博物館のときや千葉三越のときとはまた違った雰囲気になりました。
お庭も素敵でした。
人形展では、楽しみにしていた新作 「駅」 も見ることができました。
‘暇なおじさん’ さん作の、地図を覗き込む中年の登山夫婦。
この地図は、よーく見ると、真弓岳を中心に未来山、雑男(一休さん)山、章魚庵峠、空海望峠、
かたつむり(花水木さん)原、みえ湖、ひろりん村など、こちらのコメント欄にも来て戴いてる方の名前があります。 (峰猫峰も。)
そして駅で電車を待つ人々、駅員さん。
珍しく、若い男女の人形もありました。
駅で別れを惜しむ2人は、昭和初期から中期のレトロな雰囲気がありました。いいなあ。
サイン会の列の後ろに並んで順番が来ると、まゆみさんは私の顔見るなり、
「あら~」 と、嬉しそうに笑ってくれました。 顔を覚えててくれて嬉しかった~。
サイン会のあともしばらくお話させて戴きました。
お時間取らせて、すみませんでした。
母もとっても喜んでました。
人形展を見たあと、すぐ近くの円覚寺に行きました。
八重桜、牡丹、芍薬(だと思う)などが咲き、暑くもなく寒くもない陽気の中で風が心地よく、古都 鎌倉の小さな旅はいい感じ。
ウグイスの声を聞きながら急な坂道を下っていたら、母が言いました。
「この坂、ゴザかなにかでザーッと滑ったら面白そうね」
お、お母さん。 風情ってもんが……。
母が子どもの頃、祖父母は銀座で商店をしていたので、母と伯父叔母たちは ひと夏を鎌倉の染物屋さんの2階を借りて、お手伝いさんとともに過ごしたことがあるそうです。
母は久しぶりの鎌倉で、その頃のことを懐かしく思い出していました。
タンスの引き出しの奥から、1988年に開催された埼玉博覧会のマスコットキャラクター・キーホルダーが出てきました。
その名も……………
さいたーマン
埼玉には、『自虐ネタで笑ってほしい』 という県民性があるのでしょうか。
さて、次男の入学式から一週間が経ちました。
そのとき渡された、「父母の会アンケート」には、
① 幹事会・役員会に参加し、活動してみたい。
② 参加できない。 ( 理由 )
と、ありました。
①と②の間に、 「べつに参加したくはないけど、クジ引きで当たっちゃったら仕方ない」
という項目が欲しかった。
どうしても出来ないというほどの理由がないので、①に丸つけちゃったけど……
新入生は450人以上もいるんだから、いっぱいいるよね。 そういう人。
母親もドキドキの新学期です。
その名も……………
さいたーマン
埼玉には、『自虐ネタで笑ってほしい』 という県民性があるのでしょうか。
さて、次男の入学式から一週間が経ちました。
そのとき渡された、「父母の会アンケート」には、
① 幹事会・役員会に参加し、活動してみたい。
② 参加できない。 ( 理由 )
と、ありました。
①と②の間に、 「べつに参加したくはないけど、クジ引きで当たっちゃったら仕方ない」
という項目が欲しかった。
どうしても出来ないというほどの理由がないので、①に丸つけちゃったけど……
新入生は450人以上もいるんだから、いっぱいいるよね。 そういう人。
母親もドキドキの新学期です。
今日は、母の誕生日です。
ハッピー 誕生日 マイ 母~
さっき実家に電話したら妹が出て、昨日から体調崩してダウンしてるとのこと。
つい数日前、近所の4歳児に、
「お腹に赤ちゃんいるの~?」 と、聞かれたというほど、元気そうな母なのに。( ̄ー ̄;
( 若くてスリムな母親は、慌てて息子の口を押さえたという。)
画像は、2ヶ月くらい前に妹が送ってくれた、母と飼い猫のテンちゃんです。
テンちゃんの向こう側にクロスワードパズルの本が見えますが、彼女の趣味ではありません。母です。
テンちゃんは引越しする前の実家の天井裏から出てきた猫でした。
過去に作ったHPからその経緯をコピペすると…。
実家の天井裏で3日間子猫の鳴き声がしていたという。
どうやらどこからか入り込んで出られなくなったらしい。
困った母は、便利屋さんを呼んで出してもらった。
生き物を飼う気など毛頭なかった母なのだが、便利屋さんに
「猫好きのやさしいおばあちゃんの家で良かったね~」
と猫に話しかけられ、飼わざるを得なくなったそうだ。
名前は天井裏から来たから、「テン」と便利屋さんによって名付けられた。
元HPは、こちら。
文字化けしたら、Internet Explorerの左上表示ボタン → エンコード → 日本語自動選択 にしてください。
私が開くといつも文字化けしとるです。
前の家では自由に出入りして外の世界を満喫していた猫でしたが、引っ越してきたら家から一歩も出ようとしなくなりました。
朝6時頃になると 「ニャ。早く寝床、代わってよニェ」 と、母を起こし、昼間は我が物顔で母のベッドの中で寝ています。
夜になると、部屋の中を走り回ったり、ぶら下がってる紐に飛びついて遊んでいるそうで、
母はよく 「寝不足だ」 と愚痴をこぼしています。
バタバタバタ...ヘ(ヘ(ヘ(ヘ(ヘ(ヘ(ヘ(ヘ( ^-x-^)ヘ
ヘ(^-x-^ )ヘ)ヘ)ヘ)ヘ)ヘ)ヘ)ヘ...バタバタバタ
~ξヾ( ^-x-^)ブリブリ
テンちゃん、じつは人嫌いです。
前の家ではほとんど姿を見ることはできませんでした。
私たちが行くと、いつもどこかに隠れてしまうから。
引っ越してからは母の布団をめくると会えるようになりましたが、
すごく嫌そうな顔されます。
用心深い猫のテンに比べて、うちのトトはなんとノーテンキなのでしょう。
あんまり長くて携帯カメラじゃ入りきらないから、3分割して撮影しました。
( ヘンになっちった )
ハッピー 誕生日 マイ 母~
さっき実家に電話したら妹が出て、昨日から体調崩してダウンしてるとのこと。
つい数日前、近所の4歳児に、
「お腹に赤ちゃんいるの~?」 と、聞かれたというほど、元気そうな母なのに。( ̄ー ̄;
( 若くてスリムな母親は、慌てて息子の口を押さえたという。)
画像は、2ヶ月くらい前に妹が送ってくれた、母と飼い猫のテンちゃんです。
テンちゃんの向こう側にクロスワードパズルの本が見えますが、彼女の趣味ではありません。母です。
テンちゃんは引越しする前の実家の天井裏から出てきた猫でした。
過去に作ったHPからその経緯をコピペすると…。
実家の天井裏で3日間子猫の鳴き声がしていたという。
どうやらどこからか入り込んで出られなくなったらしい。
困った母は、便利屋さんを呼んで出してもらった。
生き物を飼う気など毛頭なかった母なのだが、便利屋さんに
「猫好きのやさしいおばあちゃんの家で良かったね~」
と猫に話しかけられ、飼わざるを得なくなったそうだ。
名前は天井裏から来たから、「テン」と便利屋さんによって名付けられた。
元HPは、こちら。
文字化けしたら、Internet Explorerの左上表示ボタン → エンコード → 日本語自動選択 にしてください。
私が開くといつも文字化けしとるです。
前の家では自由に出入りして外の世界を満喫していた猫でしたが、引っ越してきたら家から一歩も出ようとしなくなりました。
朝6時頃になると 「ニャ。早く寝床、代わってよニェ」 と、母を起こし、昼間は我が物顔で母のベッドの中で寝ています。
夜になると、部屋の中を走り回ったり、ぶら下がってる紐に飛びついて遊んでいるそうで、
母はよく 「寝不足だ」 と愚痴をこぼしています。
バタバタバタ...ヘ(ヘ(ヘ(ヘ(ヘ(ヘ(ヘ(ヘ( ^-x-^)ヘ
ヘ(^-x-^ )ヘ)ヘ)ヘ)ヘ)ヘ)ヘ)ヘ...バタバタバタ
~ξヾ( ^-x-^)ブリブリ
テンちゃん、じつは人嫌いです。
前の家ではほとんど姿を見ることはできませんでした。
私たちが行くと、いつもどこかに隠れてしまうから。
引っ越してからは母の布団をめくると会えるようになりましたが、
すごく嫌そうな顔されます。
用心深い猫のテンに比べて、うちのトトはなんとノーテンキなのでしょう。
あんまり長くて携帯カメラじゃ入りきらないから、3分割して撮影しました。
( ヘンになっちった )
先週は、我家から近いのに、いつも通り過ぎていた青梅に行きました。
ついてすぐお昼だったので、裏道にあるこじんまりとした 『天徳』 という天ぷら屋さんに入りました。
壁には壇一雄のサインがあったので、会計のときに尋ねたら、
『火宅の人』に出てくるとのことで、
家に帰ってから昔読んだ 『火宅の人』 を引っ張り出してみました。
すると、「わが祭り」 の最後の方にありました。
私は勝手気儘、そのまま青梅の天徳に引き返して、その二階に上がりこんで行った。
天徳の二階は、つい四五年前、佐藤春夫先生御夫妻と同行したことがある。
この日頃宿無しの私は、老師の御他界後の供養も忘れ勝ちであったが、今日は全くの偶然、この天ぷら屋の二階に、亡師のお招きを受けたような心地がした。
部屋は昔のままに傾いた勾配を見せている。先生が喜ばれた枝垂れ桜が、花こそつけていないけれども、斜め向こうの寺の築地の上に広くしだれ降りていた。
トップ画像が、そのお寺の枝垂桜です。
先週は、花をしっかりつけてました。
青梅駅近くの旧・青梅街道には、あちこちに古い映画看板が掛かっています。
青梅出身の絵画看板絵師の方の作品とか。
そのあたりは興味があったら、青梅市の観光ページででも見てください。
で、こんなかんじで店とかにも掛かってます。
食事の後 行ったのは、『昭和レトロ博物館』。
写真撮影禁止の貼紙を見掛けなかったので、写真撮りました。
2階は雪女の間でした。 写真は撮らなかった。
次に行ったのは、『赤塚不二夫会館』 です。
イヤミの肖像と、トキワ荘の一室の再現部屋の写真。
最後は、『昭和幻燈館』 に行きました。
覗き穴を覗くと、「額縁ショー」のミニチュアのパノラマがありました。
こういうのなのね。 (* ̄。 ̄*) ホーーォ。
帰りの駅に向かう道で、「ぬけられます」 と書いてあったから、ついフラフラとぬけました。
その先の塀沿いには、自転車が何台か置いてありました。
青梅駅から近い場所だから、自宅から自転車で来て、ここに置く人もいるのでしょう。
しかし・・・・・・
ショッピングカートで帰る人って、どんな人なんだろう……。
青梅は都心からも近いし、旅番組などでもよく取り上げられます。
番組制作費が安くて済むんだろうな~と、勝手に邪推しています。 ( -_-)フッ
少々前の話になりますが、4月1日は次男の所属していた中学校吹奏楽部のコンサートでした。
1部・2部は学生服でクラシックを演奏、3部は赤いTシャツにジーパンで、ポピュラーを演奏。
画像は3部の様子です。
『パイレーツ・オブ・カリビアン』 もあったため、海賊イメージ?でバンダナしてます。
本番2日前の夕方、いきなり 「オレンジのバンダナある?」 ってメールしてきた次男。
慌てて探したらあったので、 「俺んじ、オレンジのバンダナ2枚あるよ」 って返信したら、
それは無視されちゃいました。
3部では、3年生によるコントもあり、楽しめました。
3年生…といっても、3月半ばには卒業式を終えた次男たち。(4月1日には本当はもう高校生)
その後も中学の制服を着て通ってたんだから、ちっとも卒業した気がしませんでした。
このコンサートをもって、やっと卒業したことを実感。
なにかと大変だったけど、中学時代の部活は次男を大きく成長させてくれました。
先日、夜中に突然長男のベッドが壊れてボーゼンとしてたときも、落ち着いて黙々と片付け、掃除してくれた次男。 (ベッド下がムチャクチャ汚かった)
次男がいなかったら、長男と私は 「どーする どーする」 と、倍の時間が掛かったに違いない。
小学校時代はランドセルを3度忘れ (2度は通学班集合場所で気付いたけど、1度は学校まで届けた)、運動会には体操服を忘れた次男。 (先生が呆れて職員室の電話を貸してくれた)
小学校2年生にして学習机の椅子を壊し、天井の照明を2度、階段上の照明傘を1度、縁側のサッシガラスを1度割り、ベッドは過去3台ほど壊した次男。
それが決して家庭内暴力だとかじゃなくて、ただ普通に使って、何の気なしにバットや木刀を振り回して壊すんだもんなー。
しかし、気は優しくて頼もしい男に成長してくれていることに感謝です。
4月1日は近所で桜祭もありました。
午前中にちょっと行ったので、そのとき撮った写真。
我家付近、獅子も出るので要注意。
私は昼からコンサート会場に行ったのですが、携帯に自宅から 「母から電話があった」 と連絡が入りました。
そこで、実家に電話してみると…
母 「たいした用じゃなかったんだけどね。 昨日は風が強かったじゃない? そっちは大丈夫だったかと思って…。 うちは2階の雨戸が壊れたから」
ええっ 昨日って、そんなに風が強かったっけ?
と、思いながら、 「雨戸が壊れたって大変じゃない。大丈夫」 と、慌てて聞くと、
母 「う、うん。今日は4月1日だから……。 だから、たいした用じゃないって、言ったじゃない…(消え入りそうな声)」
母は、そういう人だった……。
<野の猪(いの)>
野の猪は怯えていた
恐れていた
今しがた、そこの崖の上の道を
通りがかった人間の目を。
その目は
もともと臆病そうな形の後ろに、
やたら傲慢な光を帯びていたからであった
その目は
自らは安全な高みにいながら
蔑むような光を宿していた
しかも同時に憐れみの心をも持っていて
それを誇っているかのようであった。
そして、その目は云っていたのだ
お前はそこをはいずり回って死ぬしかなかろう
それはともかく、お前は
人間の心や言葉を解することはできぬであろう
と。
猪は怯えていた
そして寒さに震えてもいた
しかし、むしろ、怒りにこそ震えていた
その身体はやせこけ、
四肢も細くおとろえていた
が、思い返すのだった
こんな身であっても
地のうなり声を聞くことはできるし
天に書かれた文字を読むことができるのだ
人間よ
お前たちこそ、それを知るまいが
と。
( 私は失聴者であるが、恐れていた、 恐れている。
「手話を…!」 と云われることを。
それは方法のひとつにすぎない。 言葉の力を奪わないでほしい。)
私は10年近く前に髄膜炎と胆嚢炎を続けて患いましたが、亜無さんも同じ病気をしていました。
ぉぉ!~~~(/ ̄▽)/\(▽ ̄\)~~~仲間じゃぁ♪
私は一応完治したけれど、亜無さんは髄膜炎で聴力を失いました。
それは、また私にも、誰の身にも起こり得ることです。
正直言って私は、手話が出来れば聴覚障害を持つ方の助けになると思っていたし、手話は素晴らしいものだとだけ認識していました。
ところが亜無さんは、「手話だけではない、手話だけではいけない」 と訴えています。
そのことは前記事でも紹介したコメント欄で時間を掛けて説明してくださいました。
あまりに時間を掛けて枝葉が多くなったため、少々わかりにくくはなりましたが…。
亜無さんの書いた言葉を使って、ここでもう一度まとめてみようと思います。
亜無さんが 「手話だけ(という考え方)ではダメ」 と言っているのは、第一に
手話は使えば使うほど、言葉(音声)に関するところを損なう面があるからだそうです。
以下、亜無さんの文章をそのまま引用します。
手話は言葉に1対1に対応しない表現方法であり、かつその表現は言葉を言葉として伝えず、逆に棄損し冒涜するところがある、と見られるところがあります。
・・・「ワンワン(犬)、ブーブー(車)」のような幼児語的表現をして 「聴障者なのだから当然。」 というようなカオをされたら、私など内心、不愉快に感じます。
(表向きは、「それは手話表現なのだから」と思ってガマン。)
(なお、手話には幼児語的な面もあります。)
音声では複数の語での表現になる場合でも手話の場合は 「ワン・アクション」、「1表現・1語の手話」 ですまされてしまうということが多いですが、そのため、そういう風に手話ばかり使っている聴障者は論理的に言語を組み立てて、物事の理解を進めるということが出来なくなる傾向があるようです。
・・・例えとして挙げれば、「酒を飲んでヨッパラッて。。。」などのハナシは手話的表現であれば自ずと「ヨッパライ」のジェスチャー的表現をしてそれで 「ことたれり」 になってしまい、「酒を」+「飲んで」+「ヨッパラッて」~というような文章を組み立てて考える必要がなくなり、その習慣もなくなるので、文章にも書く力までも育たないということになりがちです。
(=実例となる人を私は複数知っています。=)
逆に失聴者である私の場合では、一旦手話を覚えてしまうと、手話表現の方が表現に要する時間が短いので、例えば「ありがとう ございます」と発声しようとした時に、つい手話表現が念頭に出て無意識のうちに、手話表現と同じ短い時間で発声しようとして舌がもつれて、まともに発声できないという状態になります。
実際、私の知る範囲でも、手話を多用する難聴者・失聴者で発声がまともにできなくなっている人がいます。
手話にはそういう面もあることを知っておいていただきたいと思います。
・・・つまりは聴覚障害を支えるはずのものが、逆にマイナスに作用している面があるということなのです。
=障害を深め複雑化させている面があることになります。=
インターネットでの文字の会話には、聴覚障害はわかりません。
亜無さんの障害のことも、御自身が語って初めてわかることです。
しかし、もし実際に聴覚障害を持つ方と関わることになったとしたら。
私自身、神戸に行って亜無さんと会える機会があったとしたら、どうコミュニケーションを取ったらいいのだろう? と、ふと考えたこともありました。
そして実際、亜無さんには次のような出来事がありました。
・・・先年まで勤めていた会社でのこと、次々とパートタイマーの人が入れ替わる度に、私の立場を理解してもらうのに一苦労していました。
そういう中で 「私は手話を知らないのであなたと話しができません」 と紙に書いて突き出した人がいて、唖然としてしまったことがありました。
・・・私の方は口頭で「コレコレですので。。。」と言っていたのですが。。。
思うに、その人は、「聴障者」とはどのようなものか知識もなくて、
・・・実際に知っている人なら、一声の発声を聞いただけで、その人が(幼児期からの)聴障者であるか、すぐ判断できると思います。
=「ろう声」という独特の発声であるそうです= (私は聞いたことなく、知りませんが。)
↓
ただ単に「手話」というものがあることのみ知識として持っていて、
ただ、「手話を知らないので。。。」 ということをまず表明しなければならないという一種の 「強迫観念(?)」 に囚われていたのだろうと、後で気が付いたものではありました。
・・・もっとも、その人とは仕事上の接触も殆どなく名前も顔も記憶するヒマもないままで、実用上はどうでもよかったのですが、 「手話でなければならない」 ということはない、ということを知らせるヒマもなかったのは残念でした。
・・・その人も、自分の発言を紙に書いて示しているのだから、聞こえない者に対して書けばコミュニケーションできるということに、何故気づかなかったのか、不思議という他ないのですが、
私の想像するには、文章に書くということは文書・手紙文面作成という特別なものであるというような思いこみを持っていたのだろうと思うのです。
そこで、亜無さんは、「手話だけではない他の方法」 として、文字情報でのやり取りを考えています。
音声入力の出来るPCが製品化できさえすれば、即実現可能ではないかと。
なるほど、亜無さんは耳が聞こえないだけで発声は出来るのだから、相手の言ったことが文字化されれば会話できます。
音声入力PCは実際に開発されてはいるようですが、目的が聴覚障害に絞られているわけではないようです。
音声入力による携帯PCでなくとも、最近では近くにいてもメールでやり取りすることもある世の中。
若者の携帯メールの早打ち技を見ると、「手話」 ができなくても全然オッケーだ…と思えます。 ( ̄▽ ̄)ノ"
ここでまた亜無さん自身の言葉を引用。
「手話の普及が聴障者福祉になる」 という非常に一面的な考え方の人が非常に多いと思いますが、それが 「間違った常識」 であったと考えられる、そういう世の中になって初めて豊かな社会が実現するであろうと思うのです。
・・・聴障者界に「差別」を持ち込まないために、手話はあくまでも 「方法のひとつ」 であるという考え方を打ち出すのが妥当なセンかとは思いますが、現実には、それさえなかなか困難なものであるようです。
対面で相手の目を見ながら話すからこそ、コミュニケーションが取れるのだという考え方もありますから、手話もまだ必要ではあるでしょう。
亜無さんもそれはその通りだと仰います。
ここからまた引用。↓
ところが、手話は言葉としては、あまりにも不足点が多すぎるので、ちょっと微妙かつ複雑な内容となると「追いつかない」ということになりがちなのです。
=特に時間的前後関係がからむないようであったり、二重否定や部分否定の含まれる内容になると、まともに伝えられない、という状態になりがちです。
それだけでなく、手話は、現前で目える視覚的イメージと言語的意味を分けて理解する必要があるので、そのような点、手話の語としての意味とその視覚的イメージとの間に大きなズレがある場合、非常に困惑する場合が出て来ます。
「この表現は手話でコレコレの意味であって、視覚的イメージとは別なのだ」 と絶えず 「翻訳作業」 に神経を使うことになって、私など特に神経疲労を感じることになります。
筆談なら1時間やっても疲れないところ、手話だと2~30分もやっているとクタクタになります。
それだけでなく、言葉を冒涜している表現を使ったことが悲しくなる・・・というのが本音なのです。
聴覚障害にもいろいろあり、何歳で聴力を失ったかによっても事情は違ってくると思います。
亜無さんは成人してからだから、余計に言葉、文章に拘るという面はあると思います。
同時に、だからこそ、生まれつき、もしくは若くして聴覚障害を持った人に、手話だけに頼って、本来の日本語能力を失って欲しくないという切実な願いがあります。
どうも上手くまとまらないままに長くなってしまいましたが……
亜無さんに教えられるまでは、私は自分が手話が出来ないからといって
街で外国人に話し掛けられたとき、「NO! NO!」 と手を振って逃げるオバチャン状態になっていたと思いますが、「普通にしていていいんだ」 と、安心出来たところがあります。
これは聴覚障害のある人にもない人にも、良いことだと思います。
「手話だけではない、手話だけではいけない」
聴障者であれば別文化の別の世界の人間にしてしまってもよいのか?
という点に非常に疑問を感ずるのです。
という亜無さんの主張が取り上げられ、同時に手話に代わる機器の開発が進むことを願います。
野の猪は怯えていた
恐れていた
今しがた、そこの崖の上の道を
通りがかった人間の目を。
その目は
もともと臆病そうな形の後ろに、
やたら傲慢な光を帯びていたからであった
その目は
自らは安全な高みにいながら
蔑むような光を宿していた
しかも同時に憐れみの心をも持っていて
それを誇っているかのようであった。
そして、その目は云っていたのだ
お前はそこをはいずり回って死ぬしかなかろう
それはともかく、お前は
人間の心や言葉を解することはできぬであろう
と。
猪は怯えていた
そして寒さに震えてもいた
しかし、むしろ、怒りにこそ震えていた
その身体はやせこけ、
四肢も細くおとろえていた
が、思い返すのだった
こんな身であっても
地のうなり声を聞くことはできるし
天に書かれた文字を読むことができるのだ
人間よ
お前たちこそ、それを知るまいが
と。
( 私は失聴者であるが、恐れていた、 恐れている。
「手話を…!」 と云われることを。
それは方法のひとつにすぎない。 言葉の力を奪わないでほしい。)
私は10年近く前に髄膜炎と胆嚢炎を続けて患いましたが、亜無さんも同じ病気をしていました。
ぉぉ!~~~(/ ̄▽)/\(▽ ̄\)~~~仲間じゃぁ♪
私は一応完治したけれど、亜無さんは髄膜炎で聴力を失いました。
それは、また私にも、誰の身にも起こり得ることです。
正直言って私は、手話が出来れば聴覚障害を持つ方の助けになると思っていたし、手話は素晴らしいものだとだけ認識していました。
ところが亜無さんは、「手話だけではない、手話だけではいけない」 と訴えています。
そのことは前記事でも紹介したコメント欄で時間を掛けて説明してくださいました。
あまりに時間を掛けて枝葉が多くなったため、少々わかりにくくはなりましたが…。
亜無さんの書いた言葉を使って、ここでもう一度まとめてみようと思います。
亜無さんが 「手話だけ(という考え方)ではダメ」 と言っているのは、第一に
手話は使えば使うほど、言葉(音声)に関するところを損なう面があるからだそうです。
以下、亜無さんの文章をそのまま引用します。
手話は言葉に1対1に対応しない表現方法であり、かつその表現は言葉を言葉として伝えず、逆に棄損し冒涜するところがある、と見られるところがあります。
・・・「ワンワン(犬)、ブーブー(車)」のような幼児語的表現をして 「聴障者なのだから当然。」 というようなカオをされたら、私など内心、不愉快に感じます。
(表向きは、「それは手話表現なのだから」と思ってガマン。)
(なお、手話には幼児語的な面もあります。)
音声では複数の語での表現になる場合でも手話の場合は 「ワン・アクション」、「1表現・1語の手話」 ですまされてしまうということが多いですが、そのため、そういう風に手話ばかり使っている聴障者は論理的に言語を組み立てて、物事の理解を進めるということが出来なくなる傾向があるようです。
・・・例えとして挙げれば、「酒を飲んでヨッパラッて。。。」などのハナシは手話的表現であれば自ずと「ヨッパライ」のジェスチャー的表現をしてそれで 「ことたれり」 になってしまい、「酒を」+「飲んで」+「ヨッパラッて」~というような文章を組み立てて考える必要がなくなり、その習慣もなくなるので、文章にも書く力までも育たないということになりがちです。
(=実例となる人を私は複数知っています。=)
逆に失聴者である私の場合では、一旦手話を覚えてしまうと、手話表現の方が表現に要する時間が短いので、例えば「ありがとう ございます」と発声しようとした時に、つい手話表現が念頭に出て無意識のうちに、手話表現と同じ短い時間で発声しようとして舌がもつれて、まともに発声できないという状態になります。
実際、私の知る範囲でも、手話を多用する難聴者・失聴者で発声がまともにできなくなっている人がいます。
手話にはそういう面もあることを知っておいていただきたいと思います。
・・・つまりは聴覚障害を支えるはずのものが、逆にマイナスに作用している面があるということなのです。
=障害を深め複雑化させている面があることになります。=
インターネットでの文字の会話には、聴覚障害はわかりません。
亜無さんの障害のことも、御自身が語って初めてわかることです。
しかし、もし実際に聴覚障害を持つ方と関わることになったとしたら。
私自身、神戸に行って亜無さんと会える機会があったとしたら、どうコミュニケーションを取ったらいいのだろう? と、ふと考えたこともありました。
そして実際、亜無さんには次のような出来事がありました。
・・・先年まで勤めていた会社でのこと、次々とパートタイマーの人が入れ替わる度に、私の立場を理解してもらうのに一苦労していました。
そういう中で 「私は手話を知らないのであなたと話しができません」 と紙に書いて突き出した人がいて、唖然としてしまったことがありました。
・・・私の方は口頭で「コレコレですので。。。」と言っていたのですが。。。
思うに、その人は、「聴障者」とはどのようなものか知識もなくて、
・・・実際に知っている人なら、一声の発声を聞いただけで、その人が(幼児期からの)聴障者であるか、すぐ判断できると思います。
=「ろう声」という独特の発声であるそうです= (私は聞いたことなく、知りませんが。)
↓
ただ単に「手話」というものがあることのみ知識として持っていて、
ただ、「手話を知らないので。。。」 ということをまず表明しなければならないという一種の 「強迫観念(?)」 に囚われていたのだろうと、後で気が付いたものではありました。
・・・もっとも、その人とは仕事上の接触も殆どなく名前も顔も記憶するヒマもないままで、実用上はどうでもよかったのですが、 「手話でなければならない」 ということはない、ということを知らせるヒマもなかったのは残念でした。
・・・その人も、自分の発言を紙に書いて示しているのだから、聞こえない者に対して書けばコミュニケーションできるということに、何故気づかなかったのか、不思議という他ないのですが、
私の想像するには、文章に書くということは文書・手紙文面作成という特別なものであるというような思いこみを持っていたのだろうと思うのです。
そこで、亜無さんは、「手話だけではない他の方法」 として、文字情報でのやり取りを考えています。
音声入力の出来るPCが製品化できさえすれば、即実現可能ではないかと。
なるほど、亜無さんは耳が聞こえないだけで発声は出来るのだから、相手の言ったことが文字化されれば会話できます。
音声入力PCは実際に開発されてはいるようですが、目的が聴覚障害に絞られているわけではないようです。
音声入力による携帯PCでなくとも、最近では近くにいてもメールでやり取りすることもある世の中。
若者の携帯メールの早打ち技を見ると、「手話」 ができなくても全然オッケーだ…と思えます。 ( ̄▽ ̄)ノ"
ここでまた亜無さん自身の言葉を引用。
「手話の普及が聴障者福祉になる」 という非常に一面的な考え方の人が非常に多いと思いますが、それが 「間違った常識」 であったと考えられる、そういう世の中になって初めて豊かな社会が実現するであろうと思うのです。
・・・聴障者界に「差別」を持ち込まないために、手話はあくまでも 「方法のひとつ」 であるという考え方を打ち出すのが妥当なセンかとは思いますが、現実には、それさえなかなか困難なものであるようです。
対面で相手の目を見ながら話すからこそ、コミュニケーションが取れるのだという考え方もありますから、手話もまだ必要ではあるでしょう。
亜無さんもそれはその通りだと仰います。
ここからまた引用。↓
ところが、手話は言葉としては、あまりにも不足点が多すぎるので、ちょっと微妙かつ複雑な内容となると「追いつかない」ということになりがちなのです。
=特に時間的前後関係がからむないようであったり、二重否定や部分否定の含まれる内容になると、まともに伝えられない、という状態になりがちです。
それだけでなく、手話は、現前で目える視覚的イメージと言語的意味を分けて理解する必要があるので、そのような点、手話の語としての意味とその視覚的イメージとの間に大きなズレがある場合、非常に困惑する場合が出て来ます。
「この表現は手話でコレコレの意味であって、視覚的イメージとは別なのだ」 と絶えず 「翻訳作業」 に神経を使うことになって、私など特に神経疲労を感じることになります。
筆談なら1時間やっても疲れないところ、手話だと2~30分もやっているとクタクタになります。
それだけでなく、言葉を冒涜している表現を使ったことが悲しくなる・・・というのが本音なのです。
聴覚障害にもいろいろあり、何歳で聴力を失ったかによっても事情は違ってくると思います。
亜無さんは成人してからだから、余計に言葉、文章に拘るという面はあると思います。
同時に、だからこそ、生まれつき、もしくは若くして聴覚障害を持った人に、手話だけに頼って、本来の日本語能力を失って欲しくないという切実な願いがあります。
どうも上手くまとまらないままに長くなってしまいましたが……
亜無さんに教えられるまでは、私は自分が手話が出来ないからといって
街で外国人に話し掛けられたとき、「NO! NO!」 と手を振って逃げるオバチャン状態になっていたと思いますが、「普通にしていていいんだ」 と、安心出来たところがあります。
これは聴覚障害のある人にもない人にも、良いことだと思います。
「手話だけではない、手話だけではいけない」
聴障者であれば別文化の別の世界の人間にしてしまってもよいのか?
という点に非常に疑問を感ずるのです。
という亜無さんの主張が取り上げられ、同時に手話に代わる機器の開発が進むことを願います。