峰猫屋敷

覚え書と自己満足の場所

昭和40年頃の海

2013年07月28日 11時37分19秒 | 実家の話


一時のあの暑い数日に比べ、まだましになった今日この頃ですが、皆様バテてませんか。痩せてませんか。
痩せてはいけません。
ジャンジャン食べて太りましょう。
その間に、私は痩せようと思います。

暑中見舞いということで、涼しげな画像を探しました。
白黒の海の写真などいかがでしょう。

母と、兄3人と私が写っています。




写真の掲載について、母と3人の兄には承諾取ってません。
ナイショにしてください。


※ 最初、「昭和30年代後半の海」というタイトルでしたが、よくよく見ると、もうちょっと後かな? と、思って、タイトル変えました。
  本文も、ちょっと付け足しました。

「猫と裸婦」の暑中お見舞いただきました

2013年07月14日 22時24分30秒 | 人のフンドシでブログを書く
閑おじさんから、暑中お見舞いのお葉書をいただきました。
ゲイジツ的であります。
裸婦というより、laugh かも。
こんもりした猫の後姿と、ニクキュウの足跡がかわいい

(元の絵)


皆さま、体調にお気を付け下さい。
無理せず、寝られるときに眠りましょう。



 追記 7/18

今日、頂いた、祝・世界遺産登録。


父の戦友

2013年07月03日 16時23分54秒 | 実家の話
       


先日、大阪に住んでいる三番目の兄(以下、③兄)が来ました。
そのとき、聞いた話です。
物忘れが激しいから記録しておくことにします。
それと、兄妹、甥姪たちと父のことをシェアするためにも。

           

何年か前、③兄の勤める京都の神社に、地元に住む石川さんという方が来て、③兄と話をしたそうです。
たまたま軍隊時代の話になり、その方のいたところが水戸陸軍航空通信学校だと聞いた③兄は、
「父もそっちにいたんですが」といい、父の名を聞かれて言うと、大変驚かれたそうです。
石川さんは同じ、教導隊第一中隊第二隊(加賀隊)で、父と同じ初年兵でした。

父は兵隊時代に、上官からよく殴られていたと聞いたことがあります。
私には実感として感じられなくて、父ならさもありなん……くらいに思っていました。

ところが、その方は、③兄が父の息子だと知ると感激して仰ったそうです。
「西さんにはずいぶん助けてもらった。私は目があまり良くなくて、だいぶ失敗をしたのですが、
 西さんが罪をかぶってくれて上官から殴られていたんです」
と。

また、終戦後、駅のホームで父を出迎えた祖母を見て、父がとても幸せな人だと思い、自分とは違うと思ったそうです。

その後? 時間的なことがよくわからないのですが、石川さんは良くない仲間に誘われて、米軍に盗みに入る計画に父を誘ったそうです。
そのころの日本の軍隊がもうグダグダだったので、米軍もそんなだろうと、高をくくっていたとか。
しかし父はその誘いを断り、石川さんに、「そんなバカなことはやめろ」と言ったらしく、
それで石川さんもやめたそうですが、盗みに入った人たちは全員、射殺されたということです。

「あのとき止めてくれなかったら生きていなかった」
と、③兄に語った石川さん。

上の写真は、石川さんが③兄にくれた写真のコピーです。
なぜか、うちの母から石川さん宛の手紙も③兄が持っていたということで、母の同意を得ずに載せときます。

   


           

③兄が石川さんとお会いしたのは平成13年らしいのですが、父が他界したのは、平成10年でした。
母の手紙にもあるけれど、父が生きていたら石川さんの言葉にどんなに喜んだことか。

でも、父はきっと、こういうだろうなァ……って気もします。
「俺は別に身代わりになったわけじゃない! なんかあれば、すぐに俺がやったと思われたんだ!
で、私が、
「じゃあ、自分じゃないって言えばいいのに」というと、たぶん、
「そんなこと言ったら、口答えしたって言ってもっと殴られるに決まってるだろ!
って言ったでしょう。
なんか、実際にそんなやり取りがあったような気がしてくるほど、こんなとこじゃないかなァ。

でも、石川さんのお蔭で、父は(例え不本意であったとしても)、そういうところで徳を積んでいたんだと思えます。

石川さんとはその後、連絡が取れなくなったそうです。
もう、ご存命ではないのかもしれません。