数年前に義父母の家を片付けたとき、鎌倉彫の化粧箱を我家に持ち帰りました。
開けて見たら奥の方に、お地蔵様が入っていました。
「なんで、こんなところに入れていたのだろう」
と、思いながら出して仏壇の近くに置いていました。
木彫は経年で色が変わるそうですが、箱に入っていた時間が長かったせいか白っぽいままです。
高さは7センチ。
下に水晶のようなものが入っています。
私の父は生前、木彫のダルマを買ってきては
布で拭いていたのか手に握っていたのか、色を変えていました。
これらはすべて、元は白い木彫でした。
ならば、このお地蔵さまも色を変えてみようかな。
と、ふと思い立ったので
今日からやってみます。
開けて見たら奥の方に、お地蔵様が入っていました。
「なんで、こんなところに入れていたのだろう」
と、思いながら出して仏壇の近くに置いていました。
木彫は経年で色が変わるそうですが、箱に入っていた時間が長かったせいか白っぽいままです。
高さは7センチ。
下に水晶のようなものが入っています。
私の父は生前、木彫のダルマを買ってきては
布で拭いていたのか手に握っていたのか、色を変えていました。
これらはすべて、元は白い木彫でした。
ならば、このお地蔵さまも色を変えてみようかな。
と、ふと思い立ったので
今日からやってみます。
木は あたたかみを感じます。
では、そろそろ 寝ます^ - ^
久しぶりの夜更かしでした 笑
千利休作の茶杓と言う物が、この世に数多く伝わっていますが、ほとんどが贋作です。
以前「何でも鑑定団」で中島誠之助が「本物で1000万円」と鑑定していた茶杓は、茶道具屋仲間では「疑わしい!」と言っていました。
飴色になった「竹の茶杓」は手油だけでなく漆を使っているのでは?と思います。
陶器は過マンガン酸カリウムの水溶液に浸けて土に埋めておくと出来立ての物でも数百年経った様に見えるのです。
昔、「永仁の壺」というのが話題になった事が有ります。
うちでもそのまたレプリカを沢山売りました。
信長や秀吉時代に恩賞で領土を与える「領土」が無くなったので、代わりに茶道具の名器を与えましたが、今度は名器も枯渇してきました。
そこで「長次郎の黒楽茶碗」や「唐銅の花生け」を作って利休が目利きをして、箱書きをしたのです。
話は少しそれますが、明治までは「茶道・華道」は男の教養としてのたしなみでした、日清・日露戦争で多くの未亡人が出現しました。
当時女性が生計を立てて行くには、お茶やお花の師匠として仕事が最適だったのです。
それが、花嫁修業の一つとなって、現代に続いています。
唐銅の花生けは、今となっては中国から渡来したものか、当時日本で作られた物かを判別することが難しく、「何点かは日本製の物が博物館に並んでいる」と専門家の作家が言っていました。
私が存命中に、猫のお姉さま作「時代のついたお地蔵様」を目にするのは難しいのでは?という気がします。
どこで手に入れたのかわかりませんが、いいお顔ですよね。
下に水晶が入っているあたり、みやげ物かな、とも思うのですが。
> では、そろそろ 寝ます^ - ^
昨夜のそうたのははさん、おやすみなさい。
閑爺様
> 手油だけでこの様な飴色に変化するには
やっぱり手油効果でしょうか。
布でふいてたかも……と思って、昨日からガーゼハンカチでふいてます。
これじゃ色が変わらないかしらん。
> 「茶道・華道」は男の教養としてのたしなみでした
男の茶道、華道、ピアノなどなどカッコイイと思います。
> 猫のお姉さま作「時代のついたお地蔵様」
私が作ったわけじゃないし、時代物に見せかけようってわけでもないです。
ある、たいしたことではない使い道も考えてたりします。
(時代のついたお地蔵様」にするのは・・・!
花の油をちょいと着けて、それでおもむろにガーゼハンカチで
でも拭きつづければ、なんとかなりそうな気がしますが?
少なくとも、峰猫さんご存命中になんとか?・・・!
「花の油を・・・」となっているところ、
「ハナの油を・・・」と書いたつもりでした。
後で見直して、「あれ?」となりました。
訂正してお詫び(?)します。
家に帰ってしばらく置いて開けてみると
水晶玉が足元に埋め込まれた
由緒不明の木彫りの地蔵以菩薩さまが現れる
最初から入っていたのか
化粧箱に住んでいた何者かが彫ったのか
捨てるに捨てられないものが見つかった時は大事にしましょう
何か良いことがあるかもしれませんよ
達磨さんは大好物です
木っ端の手持ちがないので小石に描いて
遊んでいます
我が家の檜で作ったお地蔵さんは
陽の当たる出窓に立っていますが
随分日焼けしてきました
瓢箪は胡桃油を塗ってほったらかしていたら濃い茶色になってきました
塗っていないのも茶色になっているので
胡桃油のせいではないと思います
柘植の根付は胡桃油を塗って手の油鼻の油で磨いていたら
良い感じの色合いになってきました
大事に擦っているとピカピカツヤツヤになります
取りあえず3年は触ってください
祖母の話では、「東京は冬でも晴れている!」というのが上京した理由の第一だったそうです。
また上京して、しばらくは魚が食べられなかったと言っていました。
理由は「東京では死んだ魚を売っている!」からです。
何で祖父が校長を辞して、趣味にしていたお花の道具を売り始めたのか?祖母に聞いておかなかったのが、悔やまれます。
父も戦時中「代用教員」として一時期、岩倉鉄道学校と併設の台東商業で教壇に立っていました。
私の話が、説教がましいのは遺伝かも知れません(獲得形質は遺伝しないので、そんな事は有りませんが)
敬老の日でしたが、今、老人には「キョウヨウとキョウイク」が必要だと言われています。
「今日用事がある。と今日行く所が有る。」です。
私は、昨日一日中家にいて、外に出ませんでした。
(ガックリ
何か買うものがあっても、最近はオンラインですますのが
殆んどだし・・・。
考えてみれば困ったことです。
> 時代のついたお地蔵様にするのは私の存命中にも難しいのでは?
父のダルマは、長年かかったとは思えません。
ひとつずつ拭いて4つもあって、生前ずーっと拭いてたというほどの記憶もなく。
ダルマと同じように色の変わる材質であれば、何十年もかからないと思います。
> 行く所も病院ばかりである
行き先が病院でもいいんじゃないですか?
私はこのところ、買い物以外は出掛ける用も行き先もありません。
房州や様
房州やさんは地蔵やダルマ、仏像はお得意ですもんね。
ヒョウタンはうちにも古いのがありますが(たぶん父がボロ市とか骨董品店で買った)、
深い赤茶色をしています。なにかぬってあるのかどうかは、わかりません。
今度、よく見てみます。
> 取りあえず3年は触ってください
では、3年間は時々ブログに登場させます。
どうなるかな~。
閑爺様
閑爺さんは3代続いた、生まれも育ちも東京の江戸っ子かと思ってました。
いや、前にそうではないという話を聞いたでしょうか。
忘れました。
私は父方の祖父が神奈川生まれ、祖母が福岡。
母方の祖父母は京都生まれで東京に来ていました。
そのまま東京に住んでいれば息子達は江戸っ子になったかもしれませんが、
今では立派な埼玉県民となりました。
ヨカッタヨカッタ。
今、一番気がかりなのは、来年の元日に
埼玉の奇祭(埼玉県政財界人チャリティ歌謡祭)が放映されるかどうかです。
江戸っ子の定義は「本人、両親、その親(爺さん・婆さんの4名)すべてが東京生まれで東京育ち」です。
その昔、時の首相(う~!あ~!の)大平さんが「東京生まれで東京育ちの人同士が結婚して3代続くと白痴になる」と地方遊説で発言し、早稲田大学の池田弥三郎先生(江戸文化を研究していた)が激怒しました。
うちの子供は父方も母方も東京生まれ、東京育ちの3代目「純粋種の江戸っ子」ですが、「白痴」では無さそうなので、大平さんの話は真実性は有りません。
娘が保育園に通っていた時に「土が汚い」と言ったのに驚きました。
砂は砂場や海岸で触っていても、アスファルトジャングルで育った娘には、土は汚い物だったのです。
それで、キャンプに連れて行くようになったのです。(孟父三遷の教え? 引っ越しは出来ないので・・・)
そのお陰で、息子は中学の時に林間学校の飯盒炊飯で、かまどに火をつけるのが得意で、先生が「火がつかないグループは伊藤君に聞きなさい」と言われたそうです。何が幸いするかわかりません。
当時競馬の予想もやっていて、家庭訪問の時に「伊藤君のお陰で、何度か儲けさせて貰いましたよ」と笑っていました。
今度、新居に越すのですが、原資はこの金かも?知れません。