先日、大阪に住んでいる三番目の兄(以下、③兄)が来ました。
そのとき、聞いた話です。
物忘れが激しいから記録しておくことにします。
それと、兄妹、甥姪たちと父のことをシェアするためにも。
何年か前、③兄の勤める京都の神社に、地元に住む石川さんという方が来て、③兄と話をしたそうです。
たまたま軍隊時代の話になり、その方のいたところが水戸陸軍航空通信学校だと聞いた③兄は、
「父もそっちにいたんですが」といい、父の名を聞かれて言うと、大変驚かれたそうです。
石川さんは同じ、教導隊第一中隊第二隊(加賀隊)で、父と同じ初年兵でした。
父は兵隊時代に、上官からよく殴られていたと聞いたことがあります。
私には実感として感じられなくて、父ならさもありなん……くらいに思っていました。
ところが、その方は、③兄が父の息子だと知ると感激して仰ったそうです。
「西さんにはずいぶん助けてもらった。私は目があまり良くなくて、だいぶ失敗をしたのですが、
西さんが罪をかぶってくれて上官から殴られていたんです」
と。
また、終戦後、駅のホームで父を出迎えた祖母を見て、父がとても幸せな人だと思い、自分とは違うと思ったそうです。
その後? 時間的なことがよくわからないのですが、石川さんは良くない仲間に誘われて、米軍に盗みに入る計画に父を誘ったそうです。
そのころの日本の軍隊がもうグダグダだったので、米軍もそんなだろうと、高をくくっていたとか。
しかし父はその誘いを断り、石川さんに、「そんなバカなことはやめろ」と言ったらしく、
それで石川さんもやめたそうですが、盗みに入った人たちは全員、射殺されたということです。
「あのとき止めてくれなかったら生きていなかった」
と、③兄に語った石川さん。
上の写真は、石川さんが③兄にくれた写真のコピーです。
なぜか、うちの母から石川さん宛の手紙も③兄が持っていたということで、母の同意を得ずに載せときます。
③兄が石川さんとお会いしたのは平成13年らしいのですが、父が他界したのは、平成10年でした。
母の手紙にもあるけれど、父が生きていたら石川さんの言葉にどんなに喜んだことか。
でも、父はきっと、こういうだろうなァ……って気もします。
「俺は別に身代わりになったわけじゃない! なんかあれば、すぐに俺がやったと思われたんだ!
」
で、私が、
「じゃあ、自分じゃないって言えばいいのに」というと、たぶん、
「そんなこと言ったら、口答えしたって言ってもっと殴られるに決まってるだろ!
」
って言ったでしょう。
なんか、実際にそんなやり取りがあったような気がしてくるほど、こんなとこじゃないかなァ。
でも、石川さんのお蔭で、父は(例え不本意であったとしても)、そういうところで徳を積んでいたんだと思えます。
石川さんとはその後、連絡が取れなくなったそうです。
もう、ご存命ではないのかもしれません。