峰猫屋敷

覚え書と自己満足の場所

東北の旅

2006年06月27日 09時02分48秒 | 思い出話
昨日の記事は、高校時代の友達のお姉さんが青森にキャンバスのある大学に行っていて、
そのお姉さんのアパートに泊めてもらっての旅行でした。

そのときは恐山、十和田湖、奥入瀬渓流などに行き、帰りはお姉さんの運転する車で
秋田の黒湯温泉、宮城の鳴子温泉に泊まりながら帰りました。

恐山はちょうど大祭のときだったので、イタコさんがたくさんいて口寄せしていました。
私も亡くなった母方の祖母を呼んでもらおうかと思いましたが、言葉がわかり易いイタコさんは時間が掛かりそうだったのでやめました。
青森弁は普通にしゃべられたら聞き取れません。
母方の祖母が亡くなったあと、ちょっと不思議な出来事があったので そのことも聞きたかったのですが、
その話はまたそのうちに。(と書いたまま忘れるかも)

十和田湖では友達と手漕ぎボートを借りたのですが、貸しボート屋のおじいさんは、
「本当は30分で○○○円(値段忘れた)だけど、何時間でも乗ってていいよ」
と言ってくれました。
おおっ、太っ腹 らっきー 
と、友達とボートに乗っていたら黒雲がムクムク湧き出して、
ちょうど30分後に雷が鳴り出したので、慌てて戻りました。
恐るべし、十和田のジサマ。 天候を読んでいたか。

その後、秋田の田沢湖も行きましたが、私は断然十和田湖の方が好きです。
なんというか…湖の品格が違うというか…
よくわからないけど、十和田湖には不思議な魅力があります。

トップ画像は秋田の黒湯温泉です。
部屋と廊下の仕切りは障子のみ。隣の部屋とも襖で仕切られただけで、
電気は自家発電でしたので、夜は白熱球の電灯が弱々しく黄色い光を放っていました。
水道場にはたしか、「自炊する方は…」とか、「米を研ぐときは…」とかいう注意書きが書いてあったので、
自分で米を持ち込んで泊まる人もいるのだと感心しました。
金田一耕助の出てくる小説で、終戦後間もなく米持参で温泉に泊まる描写があったと記憶していますが、
本当に金田一耕助がそこにいても違和感のない温泉でした。

その素朴な雰囲気が忘れられず、結婚してから一度夫と訪れましたが、
そのとき夫は、
「夜中に ふと目を覚ましたら、若い男が自分を見下ろしてたから、なんだこいつ、勝手に入ってきやがってと思ったけど、普通の人間にしては顔が妙に小さかった」
と言ってました。
ずるい。私も見たかった。









キリストの墓

2006年06月26日 11時30分48秒 | 思い出話
24日の『空飛ぶ円盤記念日』 のコメントから、今日の記事は若い頃行った、
青森県新郷村のキリストの墓の画像にします。

当時も既にマニアの間では有名な場所でしたが、まだ寂れた村で、行ってみて拍子抜けしました。
ネット検索してみたら今ではすごいことになってました。

28年くらい前は、他になーんにも無くて こんなだったのよ。
柵も無かったから、墓の横に立って記念撮影した写真もあります。(ブスだから非公開)













今ではすっかり塗り替えられて、ダビデの星もくっきり書き直されているようだけど、
どっちにしろ28年前のも、途中で立て代えたり書き直したりしたに違いないですね。


明日はこのあと行った秋田の黒湯温泉の記事にしましょう。と、予告。


手術の話

2006年06月14日 20時19分48秒 | 思い出話
今日は義母の手術でした。
私は手術中は病院に行かず、チャンスとばかり、義母の家に行って冷蔵庫の中の年代物食品を片付けていました。

片付けながら、自分の手術の日を思い出していました。

    * * *

あれは8年前のこと。
背中の激痛で病院に行くと、胆石が見付かって即入院。高熱を出してウンウン苦しみ、10日後に手術となりました。

ベッドに乗せられたまま病院内を移動。ベン・ケーシーのオープニングにこんな景色を見たような。
蜂の巣のようなスポォットラァイト(大袈裟に発音)に照らされて、私は今日の主人公。
おほほほほ。

なんて余裕もそのあたりまで。
手術台に乗せられてから、医師が看護師に大声で言いました。
「おい、この機械壊れてるじゃないか」
「明日直しに来るそうです」
「それじゃ間に合わないだろぉ」

思いっきり不安になった私は、近くにいた看護師さんに、
「あのぉ、大丈夫ですか…?」と聞きました。
「大丈夫よ」と言われたけど、やはり不安のまま、手を拘束されて麻酔。
「いーち、にー、さーん」 がくっ。

このときは流産の処置のときと違って、夢は見ませんでした。

目覚めたときの痛みたるや、ものすごかったです。
麻酔がちゃんと効いてなかったんじゃないかと、今振り返っても思うくらい。

激しい痛みの中で、真っ先に思ったことは、切腹した武士ってスゴイということ。
これだけの痛みを自分で作り出して進めちゃうんだから、並大抵のことではありません。

初めはただ「痛い」と言っていましたが、それも面白みがないので苦しい息の下から看護師さんに、
「わ、わたしは…今後なにがあっても……切腹自殺だけはしません……切腹がこんなにも痛いとは…」
と報告しました。
すると、あっさり切り返されました。
「縫ってあるだけマシでしょ」
まあね。

    * * *

夕方、手術を終えた義母を見舞いに病院に行きました。
転移もなく、わきの下のリンパも大丈夫。
それに、私の時よりは手術後の痛みがなさそうでした。良かった。


しんちゃんと交響楽団 2

2006年06月11日 11時43分01秒 | 思い出話
昨日の記事をアップした後、いろんな記憶がまた蘇ってきました。
マグマ大使の笛は、いじわるで私に「吹くな」と言ったんじゃなかった気がします。
たしか、しんちゃん自身がお父さんから「吹くな」と言われていたような。
私は、笛なのになぜ吹いてはいけないのか、理不尽な気がして理由を聞いたように思います。
しんちゃんは、「とにかく吹いちゃいけないんだ。パパがダメだって言うんだから!」というようなことを言っていたような。
昨日そのことを考えていて、ふと、しんちゃんのお父さんは子供の夢を壊さないために吹くなと言ったのかな、と思いました。
もしそうだったら、しんちゃんのお父さんは素敵だし、その言いつけを頑なに守っていたしんちゃんも偉い

さて、しんちゃん一家が引越してからは、しんちゃんと会うこともなかったし、
しんちゃんの存在自体も次第に忘れていきました。(子供なんてそんなもんだ)

      

話はズズイッと飛んで、私は20代になりました。
あるとき、兄が日本フィルハーモニー交響楽団のチケットをくれました。
どこかでもらったらしいけど、「自分は行かないから、おまえ行く?」 みたいなことで。

上野の文化会館での演奏会ではハイソな方々がたくさん演奏を聴きに来ていました。
高尚な音楽にはあまり縁のない私だけど、
「何度も聴いていれば何かしら身につくものがあるかも  」
くらいの気持ちで、その場で定期演奏会の会員に申し込みました。

月に一度、定期演奏会に通いました。何度目かのときに、何気なく団員一覧を見ていると、チェロ奏者の中にしんちゃんの名前がありました。(長いこと気付かなかった)
えええーーっ\(◎o◎)/!
どこにでもあるような名前ではありません。それに、そのとき思い出しましたが、
しんちゃんは隣に住んでいたときからバイオリンを習っていました。

休憩時間になると、私は有料のパンフレットを買いに行きました。
私の席からでは遠すぎて舞台の顔がよく見えません。
パンフレットに載っていたしんちゃんの顔は、ふっくらした子供の頃とは違って、ほっそりしていました。
でも、目のあたりは子供の頃の面影があります。

しんちゃんに気付いてからは演奏は耳から遠のきました。
チェロをじっと見ながら、懐かしい思い出が胸に溢れてきました。

いつも庭づたいに来ては我家の茶の間のガラス戸を、いきなり開けたしんちゃん。
スカート履いてなくてパンツだけの時にそれやられて、ビビッたぜ。

しんちゃんちの物置に入ったら、「どれでもあげるよ」と言われて、物色したところ、鉄腕アトムのハンカチを見つけた。
「ホントにこれ貰っていいの?」と聞いたら、あっさり「いいよ」と言うから、家に帰ってすぐにマジックで自分の名前を書いたっけ。もう返せないぞ。

そんな美しい思い出が交響楽団の奏でる音楽とともに波のように寄せては返し、不思議なタイムトリップを感じました。

その後、何度かは定期演奏会に行きましたが、いつしか行かなくなりました。
しんちゃんは私が聴いていたことなど知りません。
小さいころ隣に住んでいた女の子を、思い出したことがあるかどうかもわかりません。


            

      
しんちゃんをネットで検索したところによると、今は日フィルから神奈川フィルに移ったようですが、お元気でご活躍中。
(私より年下なんだから、まだ若い
いつかまた演奏を聴いてみたいな。


* * * * * * * * * *

20時26分追記

ブログを読んだ母が言うには、「しんちゃんのお母さん、宝塚じゃなかったかな」
とのことでした。
また、「お隣で声楽のレッスンもしてたみたいよ」と。

ネット検索したら、宝塚でもSKDでもヒットしませんでしたが、
近いお名前で、銀パリに出ていたシャンソン歌手がそれかも?
もしそうならば、美輪さまとも知り合いのはず。
私が美輪さまの存在を知り、ファンになったのは中学生のときだから、
全く関係ないところで意外な繋がり???
人違いかもしれませんけど。

しんちゃんと交響楽団 1

2006年06月10日 17時09分16秒 | 思い出話
子供のころ住んでいた家の隣に、ひとつ年下の男の子がいました。
名前は只野晋作くん。

うちとは地続きの貸家でした。
ときどき私の母方の祖母がその家に入っていくのを見たので、幼い私は、
「祖母はあの家のお祖母ちゃんでもあるのか」と勘違いしかかりましたが、
そのうち家賃を戴きに上がっていたのだと知りました。

男の子の名前はしんちゃん。しんちゃんの「しん」が「晋」という字だとは考えもしなかった。
どうでもいいけど。

しんちゃんのお父さんは某有名お菓子会社の子会社の社長さんでした。
お母さんは、のちに母から聞いたところによると元・松竹歌劇団のスターとか。
前にも書いたように、貧しかった我家には自家用車などありませんでしたが、
しんちゃんちには黒い自動車と、通いのお抱え運転手さんがいました。
(大家の娘一家の方がビンボーって珍しくない?

お金持ちのしんちゃんは、レゴを持っていました。
一晩の約束で借りてきて、兄たちがその晩遅くまでかかって、立派な家を作って返しました。
家はすぐに壊されたそうでした。(そりゃ仕方ないわさ)

しんちゃんの持っていたもので一番羨ましかったのは、マグマ大使を呼ぶ笛でした。
お父さんが会社からもらってきたそうです。
しんちゃんちに遊びに行って見せてもらったとき、しんちゃんが「吹くなよ!」と言い残してどこかに行ったとき、(トイレか?)
私は我慢できなくて、そっと吹いてみました。
でも、あの「ピーヒラリピー」という澄んだ音は出ず、プスープスーというかすれた音になりました。
戻ってきたしんちゃんは、「吹いたか?」と聞いたと思ったけど、
それに対してシラを切ったような気がします。
いやあ、ちゃんと音が出てマグマ大使が飛んできちゃわなくて良かった。C=(^◇^ ; ホッ!

その後のマグマ大使のテレビで、マモルの友達がマモルから笛を取り上げて吹いてみたけど、かすれた音しか出なかった、という話がありました。
私は、「やはり私が吹いたから音が出なかったんだ」と納得しました。

さて、そのしんちゃん一家。(お父さんとお母さんとしんちゃんと しんちゃんのお祖母ちゃん)
しんちゃんの小学校入学を機に、家を買って引っ越しました。
ですから、私の小学校1年生の終わり頃まで隣にいたわけです。
その後、何度か葉書のやり取りをしましたが、不幸の手紙らしきものを送った覚えもあります。( -_-)フッ
その頃は、そんなに悪いことだとは思わなかったのよ。
ホントにすみませんでした。


長くなったから、続きは明日にします。
なお、画像はしんちゃんと私と私の母です。
元・SKDのスターではありません。

傘の家

2006年06月09日 17時11分23秒 | 思い出話
いよいよ梅雨に突入ですね。
小さい頃はテレビゲームなんて無かったから、雨の日の過ごし方は、

1. 本 ( ほとんどマンガ ) を読む 
2. 積み木で遊ぶ
3. おままごと・人形遊びをする
4. 8畳間の寝室で兄たちと野球をする(今考えるとよくできたもんだ)
5. 8畳間の寝室で兄たちとプロレスごっこをする
6. 8畳間の寝室で兄たちとチャンバラごっこをする
7. 家中無法地帯で銀弾ピストルの撃ち合いをする
8. 兄たちに、いぢめられる
9. お絵描きをする
10. ひとりで空想に耽る

こんなところでしょうか。

唯一外で遊べる方法として、トップ画像のように傘の家を作るという遊びがありました。
それでも、たいていは晴れの日に遊びましたが、雨の日もやりました。
中に入ると、狭い空間に傘を打つ雨音が響き、なんとも虚しくなったものでした。

基本的に雨は嫌いです。
ただし、雷は好き。

雷の予兆が現れるころはワクワクしました。
街の空気がなんとなく黄色くなって、鳥が慌てて飛んでいく。
妖しい風が吹き渡り、遠くからゴロゴロと音が響いて段々近づいてくる。

やがて激しい光・音・雨。
自然の奏でる交響曲が大好きでした。

早く梅雨明けの雷が鳴らないかな~。
((o(▽ ̄*)oワクワクo(* ̄▽)o))

次の記事は交響曲に繋げようかな。

遅いレジ開運法?

2006年06月07日 17時34分31秒 | 思い出話
以前の買い物のときの話です。
ええ。いつもの、近所のスーパー。ポイントカード持ってますし。

買う物を籠に入れ終わり、レジに並ぼうとしました。

ひとつのレジは、『休止中』の札。
それ以外のところを物色していたら、その札が取り去られ、
レジ係の方が入りました。
でも、「お」と思ったときは、既に一人並んでいました。
(自分で言うのもなんですが、結構トロいのです)

さて、それならば、と他を見渡したけれど、結局そこが一番早そう。
と思ったら、そのレジに迷わず突進してくるカートが視野に入りました。
私の方が近いのだから、並ぼうと思えば先に並べたのだけれど、
譲ってしまいました。
(自分で言うのもなんですが、結構小心者なのです)

そこで違うレジに。
レジ係は若いお兄さんだけど、なかなか調子がよろしい。
思ったより早く順番が回ってきて、次は私の番よっ!
と喜んだとたん、お兄さん、鼻血を出した。

「ふみまへん。他のレジに行ってくらはい」
ティッシュを血まみれにしながら言われたら、どうしようもありません。
仕方なく隣のレジに並び直したのでした。

     

なぜでしょう、なぜでしょう。
私の並ぶレジは、必ずといっていいほど遅くなる。

先日は、私の前でレジの打ち間違いからものすごーく時間がかかり、
結局隣のレジに行きました。
最初からそっちに並んでいたら、3人分くらいは早かったのよ。

その次の日は、前の人の精算が終わって、
「次は私よ。今日は比較的早い♪」
と思ったら、精算終えたおばちゃん、
「あー! 千円札がいるんだわ。悪いけど、両替して」
と、五千円札を出した。
「悪いね、ほんとに悪いね」と、おばちゃん言っていたけれど、
それ、レジ係にじゃなく、私に言ってください。
ま、たいした時間ロスではないのですけどね。
他のレジに並ぶ人と、密かに競争している私にとっては、
アイタッタッタ! なのよ。

もっと前には、私の前で清算したオジサマ、レジ打ち終わってから、
「サイフを車に忘れてきたから、駐車場まで取りに行って来る」
と、カゴを残して去ってしまった。おいおい。
レジ係りと唖然とした顔を見合わせた私、
「他の列に並び直した方が良さそうですね…」 と言うと、
「そうですね…。すみません」 と、『休止中』の札を出しました。

もしかしたら、内心レジ競争をしているから、
無意識がわざわざ遅くなるレジを選ばせているのかしらん。

悪いことがあれば、きっと他に良い事があると思い込む私。
人生プラスマイナスゼロの法則を信じてる。
とすると、やっぱりわざわざ遅くなるところを選んでいるのかも。

面白いから、これからもなるべく早そうなレジを選んでみましょう。
ハズレる度に、嬉しくなるわ♪



子供のいない国

2006年05月14日 18時03分30秒 | 思い出話
子供たちが小さい頃は、毎日が大変でした。
とくに長男が大変でした。
慣れない子育てに、どんどん子供がわがままになっていく。
下の子が生まれて、
「あんただけに手を掛けてらんねえ」という居直りで、かえって楽になった気もします。

それでもキーキーイライラする毎日の中で、私はある日長男に向かってヒステリー気味に言いました。
「子供のいない国に行きたーーい

そのとき長男は4~5歳でしたが、少し考えてからこう言いました。
「どこにだって子供はいるよ? だから、ここにいたら?」

かかか、可愛い~こと言うじゃありませんか。

長男のセリフの中ではピカイチの良いセリフです。

将来、彼女ができて、
「ああもう。男のいない国に行きたいわ」
と言われたら、すかさず言って欲しいですね。
「男なんてどこにでもいるさ。だから僕の腕の中にいなよ

これが、
「ああもう。あんたみたいな どーしようもないバカ男のいない国に行きたい
と言われて、
「僕みたいなバカはどこにでもいるよぉ。お願いだから見捨てないでよぉ
だと、の後、ですね。

妄想はさておき。

まあ、子育ても今くらいまで大きくなれば、だいぶ楽になりました。
別の苦労は次々に出てきますけど。

さっきテレビで少子化について報道していて、
「子育てが大変だから産まない」という若い人もいましたが、
私自身は、子供のお蔭で成長させてもらったと思っています。

いろんな事情で産めなかったとしても、それ相応の楽しみや苦労もあるから、
人が成長する方法はひとつじゃないですけどね。

今日の画像は、日本にまだ子供がいっぱいいた頃のもの。
私たち家族が夏によく行った、千葉の館山あたりだと思います。
母と、次兄と三番目の兄と、
スカート履いていることで かろうじて女の子とわかる私です。σ(o^_^o)

小田和正さんの話

2006年05月10日 20時02分15秒 | 思い出話
小田さんの歌も好きです。
オフコース時代は好きじゃありませんでしたが、5年位前に生協で買ってみたアルバム、『LOOKING back 2』を聴いてからハマりました。

その頃、どれ位好きだったかというと、
例えば狐が小田さんに化けたとしたら、上の絵のような感じになるだろうな…
という位、好きでした。
そう。
突然ですが、この絵はそのような突拍子も無い状況を絵にしたものです。
(アホか)

ファンクラブにも入りましたが、今年になって辞めました。
(正確にはFAR EAST CAFE PRESSの購読者)
去年、FAR EAST CAFE PRESS先行予約で2度、日本武道館のコンサートに行きましたが、
あまりの音の悪さにガッカリしてしまいました。

2度目のコンサートは母や義姉や次男とともに行ったので、それはそれで良い想い出となりましたが、
もういっか~って感じになりました。

小田さんの歌は好きです。
小田さんの声も好きです。
小田さんの生き方、考え方も好きです。

でも、やっぱり小田さんの歌は部屋や車の中で一人で静かに聴いた方がいいや。

というわけで、FAR EAST CAFE PRESSの記事を読むのも面倒になってきたし、
先行予約の特典も欲しくなくなったので、辞めたのでした。


美輪明宏さまの話

2006年05月09日 17時10分09秒 | 思い出話
中学2年だったか3年だったかのある日、
自宅2階のラジオを何気なく聴いていたら、たまたま『ヨイトマケの唄』が流れてきました。
初めて聴くその歌に私は感動しました。
今でもそのときのことを覚えているのだから、かなり感動したのだと思います。

そのときはまだ『丸山明宏』でしたが、間もなく『美輪明宏』に改名しました。
私はレコード店でアルバムを注文し、高校生になってからは渋谷の『ジャンジャン』でのコンサートに何度か通いました。
夜7時からのコンサートに昼の1時頃から並びましたよぉ。

当時は今ほどの人気ではなかったと思いますが、それでもファン層は老若男女さまざまでした。
山手教会の地下、狭い会場の『ジャンジャン』。
当時、美輪さまは反戦歌を積極的に歌っていました。
その反戦歌も、
「♪戦争を知らずに~ ぼくら~は~そだあた~」
みたいな明るい曲調ではありません。

従軍慰安婦の悲惨さを歌った歌や、
「♪世間の奴らは俺たちを 悪魔のなんのと言いやがるが
  今では俺たち悪魔より 人間どもが恐ろしい」
と、恐怖感溢れる曲調の歌などを迫力のある声で歌っていました。

そして、語り。
狭くて暗い会場でした。
下から当たるライトで、美輪さまが経験したコワ~イ話をなさるのでした。
本当に怖かったよぉ~。

美輪さまは、最近では霊能者としての側面で人気が出ていますが、歌手です。
(もちろん、知ってるよネ)
シャンソン歌手としての美輪さまは、
女性らしい優しい声で歌うときは女性らしく。
男っぽい迫力ある歌声で歌うときは男らしく。
どちらも歌えます。

さて、中学時代から「美輪明宏が好き」と友達に言っていたので、
いろいろ美輪さま情報を友達からもらうことはありました。
「猫の話 2」で書いた、友達の‘ヨシコ’ちゃんも私の美輪さま好きを知っていて、
ある日、「美輪さんがロケやるから、そのときお話する?」
と、誘ってくれました。
ヨシコちゃんはそのとき、テレビ関係のお仕事をしていました。
私たち、20代半ば過ぎの頃でした。

「ほほほほほ、ほんとっ
おお。
憧れの人に会える
私は舞い上がらんばかりでした。

上がりきった状態の私は、やっとの思いで少しだけ美輪さまとお話をしました。
「先日のコンサートで、『人生の大根役者』の曲がとても良かったです」と。
それは、フランスのシャンソン歌手、シャルル・アズナブールの『大根役者』の曲に、美輪さまが日本語訳をつけた歌です。

美輪さまは仰いました。
「アズナブールはただ単に役者の話として詞を書いたけど、私は意味を人生に広げて書いたのよ」
この曲は迫力ある男の歌で、私としては今でも美輪さまの歌ベストのかなり上位にランク付けしていますが、
最近のコンサートではあまり歌わないようです。
アルバムには入っています。

美輪さまのコンサートは、去年の夏に聴いたのが最後です。
素晴らしかった。
とくに『ボン・ボヤージ』。
長い一人芝居の語りのあと、歌に入るのですが、その芝居が今までで一番良かった。
どんどん上手になっています。

世間知らずのお嬢様が船乗りの男に惚れて家を飛び出し、世の荒波に揉まれて段々スレていく。
そしてすっかり、したたかな婆さまになったところで、男は他の若い女と出て行くことに。
そんな男を「ボン・ボヤージ」つまり、「良いご旅行を」と言って送り出す。
人生の終盤になってからの、本当の優しさと純情。

老婆になってからの演技が、また素晴らしいのです。
ちなみに『ハウルの動く城』で美輪さまは荒地の魔女役やっていますが、
さらに上の魔女から魔法を解かれ、元の状態に戻されたときの声…
すなわち、ちょっと認知症が入ってる状態になってからの荒地の魔女の声ですが、
その声にそっくりなご婦人を知っています。
『ハウルの動く城』観たとき、あまりのリアルな上手さにびっくりしました。

コンサートでは、エディット・ピアフの『愛の賛歌』も歌いました。
昔は美輪さまの訳詞で、日本語で歌っていましたが、
最近は訳詞を最初に語り、そのあとフランス語で歌うようです。
歌が佳境に入るころ、上から金粉が降り注ぎます。
キラキラと神々しくて、本当にこの世のものとは思えませんでした。

美輪さま、今月15日には71歳のお誕生日を迎えます。
世のため人のため、私のためにも まだまだお元気で現役でいて戴きたいと、
切に願っています。