会社に戻った武蔵を待ち受けていたのは、社員たちからの非難の声だった。
ニヤつきながら、リーダー格の服部が言う。
「社長! どうしておひとりなんですか? 小夜子姫はご一緒じゃないんですか?
早くもどられるよう、電報を打ってくださいよ」
「分かった、分かった。お前ら、小夜子が俺の恋女房だってことを……。
やめた、やめた。小夜子は、富士商会のお姫さまだ。それでいいや。
で、家に帰れば俺の恋女房ってわけだ」
そして翌日、武蔵の姿は岩手県の水沢の地にあった。
折からの激しい雨に、駅舎で立ち往生してしまった。
“なんだ、なんだ、幸先がわるいぞこれは”。舌打ちする武蔵に、
「どうされました、旦那さん。どなたかとお待ち合わせですか?」と、女が声をかけてきた。
三十代後半と思しき女で、着物姿のえりから、久しくかいでいない色香かもしだされている。
萌葱色の着物に赤褐色の帯がアクセントになっている。
「いえ、ちょっとね。この雨にね・・」
「それは、お困りですね。お仕事ででも、いらっしゃいましたのですか?」
やけに馴れ馴れしく話し掛ける女だと怪訝に思いつつも、凛としたその風情に少しばかり心を動かされる武蔵だ。
小夜子と離れてまだ十日だと言うのに、女っ気がなくなった武蔵の心にざわめくものが出てきた。
「はい、仕事ですわ。こちらでの名産品をね、東京で売ってみようかと考えましてね。
当てがあるわけでもないのですが、取りあえず飛び出してきたわけです」
いちいち用向きまで話す必要などないのだが、女に興味をおぼえた。
わざわざに、東京でなどと付け加えた。
女に対する見栄が芽生えている。更には、あてもなくなどと誘い水まで用意して。
“さあ、どうだい? 食いついて来いよ。こっちのみーずはあーまいよ、ってな”
「左様ですの、それはそれは。では、今夜のお宿、まだお決めになられてないのですね。
よろしかったら、ご案内いたしますが。まずはひと休みなされて、それからごゆっくりとお探しになられましては如何です?
申しおくれました。わたくし、この水沢で高野屋旅館の女将で、ぬいと申します」
よどみなく話すぬい。旅館の女将と聞いて、得心する武蔵だ。
“女将自らの客引きとは……。
すたれかけの旅館か? それとも俺に興味を持っての、お誘いか?
何にしても、取りあえず案内させるか。気に入らなきゃ、やめればいいだけのことだ”
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