源氏物語ミュージアム(宇治)
女たちとの宿縁
『源氏物語』の主人公は、光源氏という天皇の子の物語となっていますが、全編(講談社文庫全10巻)通してみると、どうもこれは源氏を取り巻く女たちの物語と思えてきます。現に、今回読んだ現代語訳者、作家瀬戸内寂聴は、女の心の内から見た『女人源氏物語』も書いています。
物語の展開は、光源氏を中心に展開しますが、逆に言えば、女たちによって源氏が動かされているとも言えます。『源氏物語』は通俗的に読んでも面白い読み物です。だから、コミックやテレビ、映画、劇や歌舞伎に何度も取り上げられるのでしょう。さらに複雑に絡み合う男女の心の綾、人生の深い闇や謎も含まれているからこそ、千年も生きながらえてきたと言えます。
私は、全編読むまでは、この物語の前半はそれほど仏教色は強くないと思っていましたが、どうやら間違いのようです。これが書かれた平安時代は、まさに仏教が盛んな時代で、朝廷の行事のみならず、庶民にも仏教が浸透していました。源氏や貴族の女たちは、男女の縁の結びつきや人生の大事など、「前世の宿縁」として、すべて受け入れてしまいます。
源氏などは、女に恋して、女を抱いてしまうたびに「これも前世の宿縁」と自分を責めるのか、言い訳するのか分からないことを言います。天皇の子だから、なかば強姦に近いやり方で女と寝てしまうこともしばしばですが、
「これも、自分が生まれる前から、こうしてこの女に恋してしまうことが決まっていたんだから、自分の意志ではどうすることもできない」
などと、むりやり自分を納得させるのです。まあ、かなり仏教思想を都合よく使ってはいます。
生きることの宿縁
後半終わり部分にあたる「宇治十帖」(文庫本3巻分)は、不思議な作品です。主人公たちは、光源氏死後の子孫にあたる物語ですが、これはこれで、別個の作品として読めます。私はこれを、19世紀西洋小説か、日本近代小説のように読みました。雰囲気は、何となく泉鏡花作品の感じがしました。妖艶で、仏教色が強く、不思議な現象が起こり、悪鬼や生霊が飛び交うようなそんな雰囲気。ミステリー色も強い。ほんとうにこれが千年前の小説かと思えるほど良く出来ています。
現代語訳者、瀬戸内氏自身も解説している通り、この作品は19世紀以来の西洋小説のテーマをすでに含んでいます。輻輳した恋愛心理、魂と肉体の分離、この世とあの世の融合、劇場型展開。近代小説が19世紀になってやっと確立した小説作法をすでに紫式部は実践していたのです。このことは、『源氏物語』第1巻から言えますが、特にこの「宇治十帖」に濃厚に現れています。
前半で源氏が亡くなって一旦物語が終了してから、この「宇治十帖」が再開するまで、時間経過と執筆背景などの問題もあり(このあたりは、瀬戸内氏が詳しく書いていますので、省略します)、「宇治十帖」は、独立した作品として読んでみてもいいでしょう。
女主人公の浮舟は、どちらかと言うと、受身的な女ですが、あまりに容姿が美しいために、運命に翻弄されてしまいます。2人の高貴な男(光源氏の血筋の子孫、薫の君と匂宮)に言い寄られ、魂と肉体の分断に苦しみ、宇治川に身投げしてしまいます。奇跡的に生き返っても、しばらくは記憶喪失になっています。救われた後も、川のほとりで男に招き寄せられそのまま川に入っていった幻影しか記憶に残っていないのです。周りにいる老いた尼僧たちは、この白装束の長い髪の美しすぎる女を、この世のものとも思えぬようにまぶしく見ながら、世話をしています。悪霊がこの世に落としていったのか、仏様がこの世に置いていったものなのか。
ここまでの場面だけを見ても、紫式部の力量は相当なものです。そのうち、浮舟は現存した横川の僧都(よかわのそうず)源信によって、出家を遂げさせてもらいます。浮舟自身も、まだ死のうという意志が残っていたのですが、死のうと思いながらもこうして死ねずに生きている、こうして生きているからには、やはりこの世で生きろという力(見えない意志=宿縁=仏)が働いているのだと悟り、出家を覚悟するのです。
浮舟は、私自身は性格的に、それほど魅力的な女性とは映りませんが(容姿が抜群に美しいということですから、現実に目の当たりにしたらいっぺんに魅了されるでしょう)、ふだんは受身でおとなしいだけの女が、追い詰められた果て、「死ぬ」ことと、「出家する」ことに、いとも迷わずに決断してしまいます。こういうところは、この女の魅力を際ださせているのかもしれません。
『源氏物語』全体に、女たちは当時の時代の要請もあってか、受身に生きながらも、一度「出家」を決断すると、スパッと出家してしまいます。そのたびに源氏や男たちはうろたえ、おろおろ嘆くのです。翻弄されているのは、じつは男たちであったり・・・、と思えてきます。
『源氏物語ミュージアム 栄華と地獄と極楽と』
『政治家・光源氏を取り巻く女たち』