―― 奴は、動物だからあれだけ走れるのさ。俺は人間だからあんなに速く走れない。だから、負けたところで悔しいとは思わない。自己記録を更新できて、満足だよ。
陸上世界選手権、男子100mで驚異的な世界新記録(9秒58。200mでも19秒11の世界新)を出して優勝したウサイン・ボルトと、2位タイソン・ゲイ、3位アサファ・パウエルの合同記者会見があった。ゲイがインタビューに答えた時、上のように言ったとか、言わないとか(もちろん、言わないさ。でも、そんな心境だったろうと容易に想像がつく)。
ゲイの顔は、自己記録更新に満足げでもあり、どこか押し殺した悔しさが滲んでいた。ボルトとゲイは、何から何まで対照的だ。ボルトと同国ジャマイカのパウエルは、彼もまた元世界記録保持者ではあるが、自分の弟が兄を負かしてくれたというさばさばした、自分の記録が抜かれたことなど、どこ吹く風という風情。しかし、ちょっと人生(競技という人生)を見切った寂しさも窺えた。競技場でボルトとはしゃぐパウエルの姿からは、そんな哀愁さえ感じる。
ゲイは、求道僧のように、常に張りつめた表情で、練習の時も、笑う顔どころか、話すこともなく、黙々と修行のようにルーティンを繰り返すのみだ(もちろん、笑いもし、口も利くさ。テレビカメラがそういうところしか映さないのさ)。特に、予選、本番を通して、スタートラインでボトルの水をひと飲み、口に含み、両腕を高く差し上げ、呼吸を整える。瞑想者のごとく静かに眼を閉じて、そして
“ON YOUR MARK"
の声でスタートラインに手を突く―。
こうしたルーティンは、スポーツの一流選手がよくやるものだ。イチローがバッターボックスに入る前にやる一連の動作や、朝青龍が制限時間前に派手に片手を振り上げるモンゴル相撲の強者・鷲のポーズなどは典型だろう。
ゲイが、もし、王者のままだったら、こういう動きはちょっと“伝説”になる。もしも、王者のままだったら・・・。
なのに、ボルトったら、決勝本番だというのに、腕白みたいに、悪ぶったり、はしゃいだり、照れたり、かわい子ぶったり・・・、まあ、それが彼なりのリラックスの仕方かも知れないし、独自のルーティンなのだろう。そんな彼が、ゲイに代わって“伝説”になってしまった。いや、なろうとしている。なろうとしている、というのは、いわば“伝説の序章”が始まったばかりで、ボルト自身、これから“伝説”になるんだと明言している。
走り方を見ると、素人目にもボルトよりもゲイの方が美しいし、無駄がない、ブレがない。ボルトの走りは、まだ両肩が揺れるし、ゴール近くで左右にきょろきょろし、チンパンジーの「パン君」みたいに落ち着きがない。専門家に言わせると、飛び切り長い脚の回転が速く、ひざの曲げ方抜き方、伸ばし方が抜群に機能的で、まだまだ記録は伸びるという。それに比べ、ゲイの走りは美しく無駄がないだけあって、逆にもう、いっぱい、いっぱい、という感じがする。
人類は、どこまで速く走れるか、というのが永遠のテーマだ。永遠に記録が縮まり続けるということはない。物体が「ここ」から「あそこ」へ移動するのだから、必ずいつかは時間的に限界がくる。まして、肉体が動くのだ。音や光が動くのではない。機械でもない。限界があるからこそ、目の前の限界は大事なのだ。それを超えようとする。その限界が、この8月、また高くそびえた。それが、ボルトの功績だ。その限界さえ、自分で超えようというのか。
かつて、陸上短距離のスーパースター、カール・ルイスを100mで負かした男がいた。彼の名は、ベン・ジョンソン。結局、薬で負かしたことが分かり、失格してしまったが。しかし、当時(20年ほど前)、ルイスを負かして9秒79(幻の世界新)で走った時、やはり世界中が度肝を抜かれた。なにしろ世界記録がまだ9秒9台の頃である。あとで薬物のおかげと分かった時は、いささか落胆はした。が、不遜な言い方をすれば、たとえ薬物によるものとはいえ、生身の人間の肉体がそれだけの速さで走れるということの驚異に身震いしたものだ。
「人間は、これだけ速く走れる」――。
一定の速さ以上で陸上を駆け抜けると、物理的に人間の体は浮いてしまうらしい。あまり速く走りすぎると、それこそ飛んで行くかもしれないと、当時まことしやかに学者さんが言っていたように思う。
ボルト君も、陸上から飛んで行って、“伝説”の鳥になるのだろうか。
―― だからさ、奴は人間じゃなくて動物だから、鳥にでもなってどこでも飛んでいくがいいさ。俺は人間だから、人間の中で一番になればいいさ。
そのように、ゲイが言ったとか、言わなかったとか。
陸上世界選手権、男子100mで驚異的な世界新記録(9秒58。200mでも19秒11の世界新)を出して優勝したウサイン・ボルトと、2位タイソン・ゲイ、3位アサファ・パウエルの合同記者会見があった。ゲイがインタビューに答えた時、上のように言ったとか、言わないとか(もちろん、言わないさ。でも、そんな心境だったろうと容易に想像がつく)。
ゲイの顔は、自己記録更新に満足げでもあり、どこか押し殺した悔しさが滲んでいた。ボルトとゲイは、何から何まで対照的だ。ボルトと同国ジャマイカのパウエルは、彼もまた元世界記録保持者ではあるが、自分の弟が兄を負かしてくれたというさばさばした、自分の記録が抜かれたことなど、どこ吹く風という風情。しかし、ちょっと人生(競技という人生)を見切った寂しさも窺えた。競技場でボルトとはしゃぐパウエルの姿からは、そんな哀愁さえ感じる。
ゲイは、求道僧のように、常に張りつめた表情で、練習の時も、笑う顔どころか、話すこともなく、黙々と修行のようにルーティンを繰り返すのみだ(もちろん、笑いもし、口も利くさ。テレビカメラがそういうところしか映さないのさ)。特に、予選、本番を通して、スタートラインでボトルの水をひと飲み、口に含み、両腕を高く差し上げ、呼吸を整える。瞑想者のごとく静かに眼を閉じて、そして
“ON YOUR MARK"
の声でスタートラインに手を突く―。
こうしたルーティンは、スポーツの一流選手がよくやるものだ。イチローがバッターボックスに入る前にやる一連の動作や、朝青龍が制限時間前に派手に片手を振り上げるモンゴル相撲の強者・鷲のポーズなどは典型だろう。
ゲイが、もし、王者のままだったら、こういう動きはちょっと“伝説”になる。もしも、王者のままだったら・・・。
なのに、ボルトったら、決勝本番だというのに、腕白みたいに、悪ぶったり、はしゃいだり、照れたり、かわい子ぶったり・・・、まあ、それが彼なりのリラックスの仕方かも知れないし、独自のルーティンなのだろう。そんな彼が、ゲイに代わって“伝説”になってしまった。いや、なろうとしている。なろうとしている、というのは、いわば“伝説の序章”が始まったばかりで、ボルト自身、これから“伝説”になるんだと明言している。
走り方を見ると、素人目にもボルトよりもゲイの方が美しいし、無駄がない、ブレがない。ボルトの走りは、まだ両肩が揺れるし、ゴール近くで左右にきょろきょろし、チンパンジーの「パン君」みたいに落ち着きがない。専門家に言わせると、飛び切り長い脚の回転が速く、ひざの曲げ方抜き方、伸ばし方が抜群に機能的で、まだまだ記録は伸びるという。それに比べ、ゲイの走りは美しく無駄がないだけあって、逆にもう、いっぱい、いっぱい、という感じがする。
人類は、どこまで速く走れるか、というのが永遠のテーマだ。永遠に記録が縮まり続けるということはない。物体が「ここ」から「あそこ」へ移動するのだから、必ずいつかは時間的に限界がくる。まして、肉体が動くのだ。音や光が動くのではない。機械でもない。限界があるからこそ、目の前の限界は大事なのだ。それを超えようとする。その限界が、この8月、また高くそびえた。それが、ボルトの功績だ。その限界さえ、自分で超えようというのか。
かつて、陸上短距離のスーパースター、カール・ルイスを100mで負かした男がいた。彼の名は、ベン・ジョンソン。結局、薬で負かしたことが分かり、失格してしまったが。しかし、当時(20年ほど前)、ルイスを負かして9秒79(幻の世界新)で走った時、やはり世界中が度肝を抜かれた。なにしろ世界記録がまだ9秒9台の頃である。あとで薬物のおかげと分かった時は、いささか落胆はした。が、不遜な言い方をすれば、たとえ薬物によるものとはいえ、生身の人間の肉体がそれだけの速さで走れるということの驚異に身震いしたものだ。
「人間は、これだけ速く走れる」――。
一定の速さ以上で陸上を駆け抜けると、物理的に人間の体は浮いてしまうらしい。あまり速く走りすぎると、それこそ飛んで行くかもしれないと、当時まことしやかに学者さんが言っていたように思う。
ボルト君も、陸上から飛んで行って、“伝説”の鳥になるのだろうか。
―― だからさ、奴は人間じゃなくて動物だから、鳥にでもなってどこでも飛んでいくがいいさ。俺は人間だから、人間の中で一番になればいいさ。
そのように、ゲイが言ったとか、言わなかったとか。