FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

プルースト『失われた時を求めて』 ~ 電子書籍でも読む?

2011-02-06 02:24:38 | 文学・絵画・芸術

 ―― 長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。ときには、ろうそくを消すと、すぐに目がふさがって、「これからぼくは眠るんだ」と自分にいうひまもないことがあった。それでも、三十分ほどするともう眠らなくてはならない時間だという考に目がさめるのであった、・・・・

唐突ですが、『失われた時を求めて』(井上究一郎訳 筑摩文庫)の冒頭部分です。長い長い小説がここから始まるのです。どれだけ長いかというと、純文学といわれる小説ではおそらく世界一ではないかと思います。それでもぴんとこない方は、文庫本700ページくらいで10巻分の長さだと考えてください。しかも、かなり小さい文字で、会話文は1ページに1~2行ある程度ですから、文字がびっしり埋まっています。文字が大きく行間が空いていて、会話文が多くスカスカの空間がある小説と比べると、おそらく同じ1冊でも2倍の文字量でしょう。

何も、長さを誇るだけの小説ではありません。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』と並んで、20世紀文学の最高峰にあるマルセル・プルーストの作品です。文学部の学生の頃、全訳の文庫本が絶版になっていて、時間がたっぷりあったのに読めませんでした。主人公が無意識の深層に入ってゆく小説全巻の出だしにあたる文章に魅惑され、何度読みたいと思ったことか。

そのうち、第1巻だけ井上究一郎訳が筑摩書房で出ましたが、読むなら全巻一気に読みたくて、その時は読みませんでした。冒頭の有名な数行だけを読んでは、もったいなく思って本を閉じていました。1巻を読み終えて次の巻が刊行されていないと、続きを読みたくても読めない、いつ出るかわからないもどかしさに耐えるのは嫌だと思ったからです。

社会人になると、あんな膨大な量の本を読んでいられるほどまとまった時間はなくなりました。そのまま長い時がたち、井上究一郎個人訳の全巻がそろい、文庫本でも手に入るようになりました。数年前、ある日私はこの長大な小説を読破しようと思い立ち、仕事の合間のとぎれとぎれに、2年くらいかけて全巻読んだのです。青春時代にやり残したことを、ずっと気になっていて、中年になったある時急に(じつはいつかやり遂げようとずっと思っていて)、とうとう決意して断行する、ということが一つや二つあるでしょう。私の場合、それがプルーストだったのです。

『失われた時を求めて』というと、プロの文学者や作家でも全巻読み通した人は、そうそういないようです。最初の巻だけは読んだという人はいるでしょう。また、本場フランスでも、全巻読んだという人は小説家志望でもあまりいないらしい。ちょうど世界文学でも評価の高い『源氏物語』を、日本人で全巻(現代語訳でも)読んだ人がそれほどいないのと同じようです(私は、両方とも読みましたけどね)。

もちろん、小説なんか長けりゃいい、読んだだけでいいというものじゃありません。サムセット・モームなどは『世界の十大小説』の中で「くだらない小説を読むくらいなら、『失われた時を求めて』を読んで退屈していたほうがよほどまし」とまで言っています。あれだけ長いのですから退屈な箇所はところどころあります。モームに言わせれば、その退屈さも味わいがあるということなのです。確かに退屈な部分はありましたが、読み終えた今でも、もし時間がたっぷりあったらじっくり読み直してみたい名作です。

『失われた時を求めて』は、個人全訳ではほかに鈴木道彦(集英社文庫)のものがあり、その前には作家丸谷才一ほか分担役のものがあります。最近うれしいというか驚いたことに、岩波文庫で新しく個人訳のものが刊行され始めたのです(訳者名は覚えていません)。個人的には読む時間があるかどうかは別として、新しい訳が出ることはうれしいのですが、よく出したなあと思いました。この手の本は、よほどの小説好き(あるいは専門家)でない限り読まれないじゃないかということです。すでに2つの個人全訳が文庫で出ているところへ、商売的に採算が合うのか、余計な心配をしています。運よく最初の巻が売れても、最後の巻までたどり着ける人がどれだけいるか。いや、第2巻まで続く読者がどれだけいるか・・・・。

こういう本は、評価は別にして、そうそう売れるものではないし、売れなければ書店の本棚から消えていくしかない。書店の棚にはスペースに限りがあるので致し方ない。一度棚から消えてしまった本は、たいてい2度とその棚に戻ってこられない。どうしても読みたい時は図書館で読むしかない。これは、宿命なのです・・・・。

・・・と、こういう問題が解決できるのが、電子出版というものなのでしょう。電子書籍なら、書店のスペース、売れ行きに関係なく、いつでも在庫をデータから持ってこられる。売れない名作、良書をいつでも読むことができる、ということになるらしい。これはこれで、きっと素晴らしいことに違いない。・・・でも、『失われた時を求めて』のような小説は、電子版のタッチパネルでページめくりするよりは本棚にいつでも積んでおいて、さあ、その時が来た、という自然な気が起きて読み始め、一ページ一ページ、じっくり指の先で紙をめくっていくことが、きっと似合うというか、落ち着くという感じがするのですが・・・。