FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

村上春樹 ー 『海辺のカフカ』のカフカ

2011-02-15 01:23:25 | 文学・絵画・芸術
戦後派文学に夢中になった者としては、村上春樹の文章にはなかなか入れなかった(「村上春樹氏の声を聴け」)。無国籍(どちらかというとアメリカ小説翻訳調)的な文章は、1ページも進まないうちに跳ね返されそうな感じで読んでいけなかった。

それが、つい読み始めたら一気に読んでしまった。村上春樹の文章は、軽くすらすら読めるが、文体を持っている。大江健三郎の文章に似ているところがある。国籍がない。舞台は日本だが、日本的な文体ではない。これも、世界中で読まれやすいところかもしれない。

『海辺のカフカ』は不思議な小説ではある。二つの物語がパラレルに進んでいき、やがて交錯するというのは、ドス・パトスが『U・S・A』で最初にやっており、サルトルやフォークナー、また日本の作家でも同じ手法を使っているので珍しくない(サルトルの『自由への道』でこれを見たときは戸惑ったけど)。父殺しのテーマといっても、ドストエフスキー的な、何かに根ざしたものがあるのか、何が理由かよくわからない。

「カラスという少年」は、主人公カフカの自我のもう一つの形であると思われる。ナカタ老人は、カフカ少年の肉体的分身ともいえる。現実世界での分身であるが、それを生々しく体現させないためにナカタ老人を非現実的な存在とさせている(ネコと話ができたり、少年時にいっさいの記憶を喪失させたり、予知能力があったり・・・)。
夢と無意識と幻想が現実と交錯し、ストーリーを進展させていく、そこに性愛感情が絡むというところなどは、まま、小説家がよく使う手だと思う。全体的にはうまくまとまっている。

ただ、ナカタ老人がネコと話せるというのは小説世界ではどうということはないとして、イワシやヒルを空から降らせたり、大きな石を見つけて異次元の世界を開くとかというところになると、あるいはまたジョニー・ウォーカーというカフカ少年の父親らしき人物がネコの脳みそを食べているうちにナカタ老人に刺殺されるとなると、「おいおい、このオトシマエはどうつけるの?」(つまり、小説的にどのように結末に落としていくの?)と、作者に問いたくなったりする。

虚構の世界でも、ちゃんと筋が通っていないと、小説世界での現実性がなくなってしまう。面白く読んだけれど、なんだか、後味がいまひとつ。でも、若い人たちによく読まれている理由も少しわかった気がする。

毎年、ノーベル文学賞候補になっているということだけど、どうだろうか。無国籍的というのはグローバル的とも言えるし、強みといえば強みだ。かつて川端康成が受賞したような日本的美の情緒がなければならないというものではもはやない。世界で今、最も多く読まれている作家のひとりの作品を、もう少し読んでみようかと思う。・・・ところで、カフカというのは、まさしくあのフランツ・カフカですよね。作者もカフカの影響を大きく受けてるという。あのカフカの小説もよくわからないし、不思議といえば不思議な作品ばかりだった。(「城の夢 ― カフカにとりつかれて」)