―― 医者は、手術室から出てきて、部屋の隅で待機していた私たちの前にある小さな白いテーブルのところに来た。たった今肉屋で買ってきた、黒い血まじりのレバ肉のような塊が入ったビニール袋を、気遣うように置いた。
「これがそうです」
それが、切り取られた妻の乳房だった。
アメリカの女優アンジェリーナ・ジョリーが、乳がん予防のため乳腺切除の手術を受けたことを公表した。母親もがん体質で、がん発生の高リスクを排除するためとか。どちらかというと肉体派女優のアンジェリーナだが、その誇る肉体、特に男性が魅力を感じるシンボルの乳房を切除するというのは、勇気のいったことだと思う。というより、女優生命にもかかわるのではないか、と心配してしまう。
もっとも、ハリウッドのトップ女優であるから、高額でも精巧・高度な手術で人工乳房の再建に踏み切れたのだと思う。アンジーの手術成功で、乳がん予防だけでなく、美容アップ(より形よく、より大きく)のために人工乳房を手に入れたいと思う女優が現れても不思議はない。もともと、豊かで魅力ある乳房を持っていたアンジーが単に美容目的でないのは本人の公表どおり明らかなのだが、皮肉にもそれが美容整形として流行るようであれば、ちょっと複雑ではある。
じつはアンジェリーナの乳房再建が話題になったことと偶然にも時を同じくして7月から、人工乳房による乳房再建手術に対して公的医療保険が適用されるようになった。これまで乳房再建というと、「自家再建」(患者自身の腹部の脂肪などを切除して移植して行う乳房再建)しか保険適用が認められず、人工乳房は保険適用外だった。ざっと、人工乳房だと100万円はかかる。これを自由診療で支払うのは、患者にはちょっと躊躇があった。(もっとも、民間保険では保険対象になるものもある。)
念のため言っておくと、アンジェリーナのようにがん発見後による摘出ではなく、がん予防のための摘出による人工再建は公的保険が適用されない。アンジーのように、これからも肉体的魅力が求められる女優は、相当高額な手術費用がいっただろうが、一般人はそうはいかない。
日本で人工乳房を入れるとなると、そこそこは掛かったが、これも保険適用になり患者の負担は相当減る。治療費の3割、しかも高額療養費が利用できるので実際は8~9万円ですむ。しかも今回、保険適用が認められたアメリカの医薬品メーカーは、これまで冷たくて違和感があると言われた人工乳房の質感を高め、形状や材質にまでこだわった新型の人工乳房を承認申請中だという。そうなると、一命をとりとめた女性が次に悩む乳房の問題は、費用の面でも質の面でも、だいぶ前向きにとらえることができそうだ。
乳房というのは、患者である女性だけの問題ではない。夫がいれば、乳房を失った妻が不憫だし、小さな子がいれば、母親の体の形が変わってしまうのはその子にとってもショックだろう(幼い子にそういうことまで告げるかということは別として)。
―― 私の妻もまた、3年前に左の胸を落とした。幸い、早期のため今のところ術後の大きな問題はなさそうだ。しかし、これですべて安心というわけではなく、これからいつどうなるかはわからない。
手術の前、医者から、切り落とした乳房の後に「つくる」ことができると言われた。一つは体の一部を移植して、もう一つはシリコンを入れて。最初は「自家」にしようかと承諾したが、やはり腹や臀部の脂肪が「そこ」にくるというのは、本人はなかなか納得いかないようだった。シリコンなら形よくできると言われたが、その時はまだ保険適用ではなく高額だし、なにより自分の体ではない異物が常に「そこ」にあるというのが、どうしてもなじめそうになかった。
結局、再建は切除後にいつでもできるということで、切除と再建を同時の手術でやるというのは見送ったのだ。で、妻は今も「未再建」のままだ。
確かに、美容のために顔や胸に異物を入れる整形はあるが、乳房再建は美容ではなく治療である。義手や義肢と同じで、喪われたものを人工的に復元するものである。もっとも、治療として必要な人工物が、質感も良くなり、しかも美容感覚で気軽に再建できるようになると、女性患者にはこれからもっと明るい未来が見えてくるような気がする。