喜多川歌麿『柿もぎ』
喜多川歌麿『江の島鮑採り』
師宣や春信は もちろんいい。しかし、歌麿は別格だった。
歌麿の作品が眼の前に出てきてから、ぱっと世界が変わった気がした――。
東京三菱1号館美術館で、第1期(6/22~7/15)、2期(7/17~8/11)、3期(8/13~9/8)と分けて「浮世絵 Floating World」が開催されています。
第1期では、菱川師宣、鈴木春信、勝川春章、東洲斎写楽と、美人画中心です。むろん、喜多川歌麿の美人画、錦絵もあります。北斎、広重などは第2期なので、こちらも楽しみですが、やはり、歌麿はすごいと思いました。海外のコレクターが、歌麿に限らず、大量の浮世絵を当時持ち去ったということは、残念でなりません。もっとも、それによりモネ、マネ、ドガ、ゴッホ、セザンヌ、ルノワールなど西洋の印象派画家にも影響を与え、日本の浮世絵が国際的に知られたのですから、良しとするしかありません。
歌麿の筆の線は、その線が零点何ミリずれていても、まったく別物、評価が違ってしまうのではないかというほど、繊細の極致で描かれています。浮世絵は線の芸術であると言えるでしょう。ダ・ヴィンチがあえて線を排除し、陰影によって『モナ・リザ』を描いた革新的な描法に劣らず、線で描き切った歌麿ら浮世絵師もまた、革新的だったのです。
歌麿といえば美人画、遊女や町娘などを描きました。『ビードロを吹く女』が有名ですが、今回は当作品は展示されていませんでした。ほかの作品でも、間近で見るとそれぞれに見とれる素晴らしさです。歌麿が描く美人は、すらりとした八頭身、今でいうモデルなみの美人が登場します。頭の大きさは、昔も今も変わらないので、絵を見て推測すると175~185センチくらいの長身ですらりとした女が描かれています(『青楼十二時 続 丑の刻』など)。
これは、歌麿自身の好みなのか、いや、歌麿の美人画は超人気殺到だったと言われてますから、やはり町人男たちの好みだったのでしょう。あの時代、そうそうタレント小雪のような長身美人がいたわけではないでしょうから、スタイルなどは理想で描いていたと思われます。すらりとした細面の色白娘が好みとは、昔から男が好む美人タイプは変わらないということでしょうか。
今回、美人画に劣らず歌麿のすごさに驚いたのは、浮世絵のダイナミズムです。生活感と動きのある作品が、いくつもありました。たとえば、『柿もぎ』。一人一人の女は美人画そのままですが、日常生活の動きがあるのです。歌麿の作品には男女が交わる肉体的動きのある錦絵もありますが、そういった動きとは違います。木の枝に付けた紐を引っ張り枝を揺する娘たち、背伸びして柿をもぐ娘、木に登った若い男から柿を手渡しで受けたり、しゃがんで籠に枝ごと柿を入れる、はたまた肩車のように抱きかかえられて柿の枝にしがみついてもごうとする娘、それらを見物して楽しむかのようにたたずむ女2人。
いわば、一瞬の時間をパノラマ的に描かれたものでした。ほかに蚕(かいこ)の手工業所の作業風景(『女織蚕手業草』)や上半身裸の若い海女たちがアワビ採りをしている絵(『江の島鮑採り』)など、一見、かなり生活臭さがあります。ところが、ちっとも地味ではなく映画の一幕を見ているようで、それぞれの人物が生き生きとエロティックなほど、まさに動き出しそうな、いや、先ほどからずっと動き続けているような錯覚にとらわれます。
歌麿に対する新しい発見でした。歌麿は、町民の美人だけでなく、そうした生活の中の美人、いや生活全体の中から美をパノラマ的に、瞬時の動きの中で見出そうとした絵師だったのではないでしょうか。美人は、ただただ、その象徴だったのでしょう。