「華魚繚乱(かぎょりょうらん)」アートアクアリウム2013
不思議といえば不思議、当たり前といえば当たり前。たかが金魚。一つのものに二つ、二つのものに三つと重なり、化学反応を起こす。それがアートになる。
日本橋三越前で「アート・アクアリウム2013」をやっている。主役は金魚、だけど金魚は脇役。生きている金魚だが、多少は高価なところというか、買えない代物ではない。風物として、金魚鉢に入れておけば誰でも鑑賞できる。江戸の八っつあんでも、貧乏作家でも畳の上に置いておけば可愛がられる金魚ではある。
ありきたりが、アートになる。光と音と色彩と、そして形(器)。そこにひらひらと泳ぐ金魚群。数秒ごとに水槽内の光が変わる。赤、青、緑など、LED光線が水と生き物を反射させる。光がなくなると、次の光の色彩が待ち遠しくなる。
華が開く、水があふれる、繚乱となって。色の魚が咲き乱れる、華となって・・・。
ひらひらと、ゆらゆらと、揺れる魚。そこに和風の音が流れていく。ゆったりと―。ああ、昔の人はただただ、水に入った金魚を一匹、二匹と、眺め愛でていたのだ。それが今、光と音と色彩の中にいて、愛でられる。
水。泉のように、川のように、湧いて、流れる色の光る水。その中にいる金魚。
四季ある日本の景色を襖絵にすることで、かように変わるのだろうか。何匹もの魚が泳いで揺れている。この「水中四季絵巻」の中で遊泳している。また、水槽に敷かれた着物の紋様となじんで、刻々、色が変わるのに、水の表層で泳いでいる金魚だけが何も変わらず、時という水の中を止まっている。泳いでいるのは金魚ではなく、音と時間、この魚はそこに揺れながら静止しているようだ。そこに揺れながら、止まっているのに、景色と時だけが背後に泳いでいく。
こう見ると、まるで金閣の鳳凰(三島由紀夫)のようだ。鳳凰は、金閣の上で停まっているが、決して静止しているのではない。時間が羽ばたいているのだ。鳳凰が飛んでいるのではなく、時空が羽ばたいていて流れていく。
生きている金魚というありきたりの素材に、何かの要素が加わることで新しいものが生まれる。創造というのは、きっと、そんな高邁なところにあるのではなく、案外、身近にあるものなのだろう。だが、そのありきたりの素材に、いかに新しいものを発見して創造し、融合させるか、それが存外難しい。
芸術も同じ。新しい人生もきっとそう。そんなことを感じながら、観てきた。