FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

ドストエフスキー『地下室の記録』 ~ 地下室のネズミ一匹と自分  

2013-08-11 18:35:32 | 文学・絵画・芸術

  『地下生活者の手記』(ドストエフスキー)は、学生の頃に確かに読んでいるのですが、しっかりと記憶がありませんでした。一人の男が地下室に引きこもって、何やらぶつぶつ、世をひがんでか、卑屈で偏狭な思考を地下から吐き出しているというイメージがありました。もちろん、その卑屈で偏狭なりにちゃんとした思想であるという文学的建て前を通しているところが気に入ってはいました。

 今度、亀山郁夫新訳(集英社)で読んでみました。読んでみると、これがけっこう面白いのです。最初は少々退屈ですが、中盤から意外とストーリーがあったのには、今頃、ちょっとした驚きでした。タイトルは亀山訳では『地下室の記録』となっていて、これはやっぱり『地下生活者の手記』(米川正夫訳)でしょ、と思いながらも、まるで自分(ドストエフスキーではなく、今書いているこの私)のことが書かれているのじゃないかと、つい読み進んでしまいました。後期の5大作品に登場する粗削り版の人物がそこにいます。

 暗くて、偏屈で、意地っ張りで、一人よがりで、正義漢ぶり、いつも自分を正当化し、言い訳人生に徹し、いじけて、そのくせ尊大なところがあり、やたら壮大な哲学論を語りたがり、といってそれが受け入れられるどころか、はたでは滑稽のこんこんちきで、かと思えば、それなりに優しくもあり、涙もろく、努力はすれど実を結ばず、いつか馬鹿にした奴は見返してやる、報復してやるとたくらみ、不満があればひと月もふた月も口をきかず、誰が何と言おうとも笑わず、つまらん顔をして人を不快にし、怒りをはじかせるチャンスをうかがいながら人前では愛想笑いをし、声は小さくもごもごと、ちょっとした弾みで大声で喚き、怒声を浴びせ人を驚かし、実直ではあるがまともに話相手がつとまらず、人といるだけで窒息する空気に耐えきれなくなり、ついついピエロを演じて喝采を浴び、こいつはほんとはおもしれえ奴かもしれんと周りに思わせ、それが高じると俺はピエロではない、笑わせ役なんぞまっぴらだとむくれだし、そうなるともう深遠高邁な理想を語ろうとも誰も耳を貸さず、さ、どうしたどうしたと手拍子ではやし立てられてついまた踊りだし、ははは、と自分でも笑いながら哀しい涙を流し、群れからはずれてとぼとぼ歩き、ほんとは太陽のような明るさを求めているのに暗い場所にひかれ、ささいな欲望も抑えきれず、死んでもいいかと思うにしても意外と頑丈な体を持ち、病気もせず、こんなだから貧しくも長生きし、馬鹿にされ笑われ、下向いて恥と知りつつ金をせびり、それでも心の底には人一倍二倍の高潔心があり、食わず飲まずとも空気だけ吸えれば生きていけるとし、ために家族を飢えさせ、腹いせにお前らよりも俺様のほうが偉いのだと心中で周りを見下し、金も稼げず世も変えられず、まだ何とかなる、何とかするさと人の服にしがみつき、負け惜しみに自分の才なりをひけらかし偉ぶるが、とうとうどうにもならずに今度こそ死んでやる、そうこうするうち自己の抹殺に意味がないと知り、なんで自分はこうなんだと考え考えても道を誤ってきたとは思えず、まだやり返せると思っても体は衰え気は萎えてきて、渾身の一歩で地下の階段にたどり着き、服役者のごとく地下へ降りる前にひょいと肩を斜めにすかして振り返りざま、俺もここまでかと観念し、そういった自分を背中から見て、まだ生きてるぞお、生きてるからにはもう少し地下に潜り、心のバリアを深く張りめぐらし、自分を観察し人を観察し、おのれの生きた証は少しでも世界を変えることだったと信じ直し、もう一度そこに座り直して、神と地獄と革命とやらを練ってやる――。

 ―― 私は、そういう人になりたい・・・・というわけではないけれど、地下室の住人とはなんとなくこんな人で、私はもしかしたら滑稽でいつも笑い者の種になり、鬱陶しがられているのかもしれないなどと思ったりしました。ドストエフスキーの地下室のネズミ(地下の住人のことを自分でこう言っている)は、もっと思索的に深いのだろうけれども、ところどころで、なんかオレのことを書いてやがるなあ、と思ったりしたのでした。

 文学も芸術も、すぐれた作品というのは、必ずどこか自分に似た人物が登場するものです。それが最大公約数的に母体が大きくなることでより共感を生みます。それが顕在化しているかいないかは別です。潜在的に、自分って、もしかしたらこんな人間かもしれない、と思ったらもうしめたもの、作者の思うつぼなのです。

 なかなかどうして、自分なんぞ、わかりゃしないものです。