FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

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『風立ちぬ』宮崎駿 ~ アニメと文章の濃密な時間

2013-10-08 01:13:47 | 芸能・映画・文化・スポーツ

 『風立ちぬ』は、宮崎駿監督が本当に描きたかったものに近い映画だったのだろう。

 『ナウシカ』から始まって『紅の豚』など、宮崎アニメには必ず飛行物(飛行シーン)が出てくる。それだけ、映画は立体次元となる。地上だけなら一次元である。地と海なら二次元である。これに空が加わることで三次元、そして夢や意識の時間が加わることで過去・未来を超えて四次元、数次元空間の世界へとつながっていく。次元が多くなるにしたがって、宗教的・哲学的となる。これが、子ども向けにはファンタジー、幻想的なものにもなる。 

 しかし、今回はファンタジーではない、現実の世界を描いている。戦争、大震災、貧困、失業、病、恐慌。戦争という過酷な現実の世界で夢を追う物語である。夢 ―、それが人を殺す戦闘機を造ることなのか、という疑問にはあえて答える必要はない。宮崎駿自身、このアニメは戦争を肯定するものでもない、かといって、本当は戦闘機ではなく民間機を造りたかったのに時代が許してくれなかった、などと言うつもりもない、と語っている。 

 ひたすら「美しい飛行機」を造りたかった、それに情熱を燃やした主人公を描きたかった。そんな物語である。宮崎監督自身が飛行機好きで、しかも戦闘機マニアだという。戦闘機は美しいという。だからといって、戦争讃美ではない。そういえば、僕が小学生の頃も、ゼロ戦ものの漫画が流行っていた。漫画誌に載っていたゼロ戦は美しかった。そのフォルムは、小学生の僕もまねて、よく描いたものだった。アメリカのグラマンやB29とかいうのはぶっくり太ったサメのように醜く、グロテスクだった。明らかにアメリカは敵国であり、美しく性能が良い日本のゼロ戦は、敗けるはずがなかったのだ・・・。ゼロ戦のパイロットは常に漫画のヒーローだった。まるで、野球のヒーロー、格闘技のヒーローと同じだったのだ。 

 この物語は、戦闘機づくりだけの話なら、映画として成立しない。それは宮崎監督自身わかっていたのでは、と思う。小説『風立ちぬ』(堀辰雄)のストーリーを縦糸に入れていることで、作品が成り立っている。では、なぜ『風立ちぬ』なのか。なぜ、堀辰雄なのか。そこが、いまだにわからない。菜穂子との出会い、恋愛、結婚、病気、死別だけのアニメをつくったとしても、宮崎駿なら十分、観賞に耐えうる作品として仕立て上げただろう。いや、これまでのジブリであれば、たとえば『魔女宅急』や『アリエッティ』みたいに、これを少年少女向けにつくったとして、アニメとしても、興行としても成功したと思う。 

 この機会に『風立ちぬ』を読んでみた。読んでみて、文章が美しい。文章が濃密である。これは、作中の妻の命が限られているという時間の緊迫感、切迫性からくるもので、文に無駄がない。無駄のなさが最後まで緊張感を引っ張る。また、雰囲気としてはプルースト的なものを感じさせる。宮崎駿自身、この小説を若い頃に読んだことがあるが、その時はよくわからなかったと言っている。それが年を経て、こうして映画の重要な織り糸になっているのは、監督自身の母(父の前妻)がやはり結核で亡くなっていること、自分自身の人生の残り時間が限られてきたことと無関係ではないのだろう。 

 「生きねば」―、これは、明らかに小説『風立ちぬ』のフレーズだ。「いざ、生きねやも」。この言葉は誰に向けられたのか。誰が発したものなのか。映画の主人公二郎には、この言葉はそれほど切実ではない。妻の死、敗戦。自らが開発した戦闘機ゼロ戦は、一機も戻らなかった。終結した戦争の残骸、街。 

 その中で、「生きねば」―。

 それは、納得のいく言葉である。しかし、僕には、違う人間に向けられたような気がする。それは、もちろん、病にあった菜穂子である(菜穂子とは堀辰雄の短命の妻がモデル)。

 ―「わたし、この頃、生きたくなったのよね」「あなたのためにも」。

 毎日毎日を死と向き合っていた菜穂子(小説では節子)と生涯病身で死んでいった堀辰雄その人の言葉である。映画では,残された二郎の言葉であるが、そしてもう一人、それは宮崎本人の言葉であると思う。 

 もっと自由に、もっと残り少ない人生を充実に、正直に。「創造に向けられる本当の時間は10年」という作中の言葉どおり、この時間を精一杯「生きねば」。これは、観る者の我々自身への言葉でもあるような気がする。戦闘機を扱っているから戦争賛美だ、喫煙シーンがやたら多いから喫煙推進派だとかいう人の言説に付き合うのは、あまりにかなしい。