FPと文学・エッセイ 〜是れ日々なり〜

ライフプラン、資産設計のほか、文学・社会・芸術・文化など気まぐれに日々、FPがつづるエッセイ。

東海道五十三次 人、景色 ~ マッチ箱の広重

2013-10-13 07:49:35 | 文学・絵画・芸術

                               歌川広重『東海道五十三次 三島』

 歌麿(「美の中の美人」)に続いて、北斎、広重を見てきました(「浮世絵 Floating World」第2期)。

 歌川広重。その名前を知ったのは小学校下級生の時でした(当時は安藤広重と教わりました)。あの頃、親が煙草に火をつけるのに持ち歩くマッチ箱のウラ・オモテに、広重の「東海道五十三次」の浮世絵シリーズが印刷されてあったのです。絵の下端に、必ず「広重画」と自筆署名が入っていたのを覚えています。

 今思うと、そのマッチ箱業者の社長は、随分洒落た人だったと思います。小学生ながらに親のマッチ箱で広重の浮世絵を鑑賞していたのです。ここは日本橋、これは品川、これには三島が描かれていると、幼友だちとその風景に見入ったものです。 

 わずか数センチ四方の四角の絵を見ていると、線で簡素に描かれたおもちゃのような人々が、そのままの格好で街道を歩き出した、そんな気がしました。小さな紙芝居でも見るように、あの頃の私は浮世絵の中に入っていったのです。描かれた風景は、どれもいつか見た風景に見えます。でも、日常の世界がなんと幻想的に変わっていることか。子ども心にマッチ箱の絵の世界に捉われていました。 

 今度改めて広重を見て、その精巧な細密さと色鮮やかなのに感心しました。鮮やかな青、ヒロシゲ・ブルー(hiroshige blue)―。原色ではないが原色を感じさせるような青というか、綺麗な藍。じっくり見て、その鮮やかさに驚きました。近くで見るよりも、少し離れて見た方が実感できます。それに構図の斬新さ。こういったことは、さんざん言い古されたことで陳腐かも知れませんが、陳腐になるほどその表現が合ってしまうのです。 

 庶民の姿と景色、絵にしてしまうと、それは楽しい、美しいものではありますが、よくよく見ると、一瞬を描かれたこの時代の庶民の生活は、そこここに悲哀あり、苦しみあり、しかしひと時の楽しみが浮き出ています。どの絵にも景色の中で歩いている人がいて、旅人の動きがずっと続いていくようなそんな時間が浮き出ています。子どもながらに、マッチ箱の小さな画面の世界に見入っていた、とても貴重な時間でした。 

 ちょうど今の子たちは、マッチ箱の印刷より数回りも大きいスマホ画面の中で、動いているキャラクターを夢中になって追いかけています。昔も今も変わらない光景と言ってしまえばそのとおりですが、静止した画(え)から想像の世界に入って行くかどうかが決定的に違います。動画と違って、絵は、一瞬の静止の中、静寂の中に過去あり、現在もあり、そして未来を感じさせ、絵の中にいる人々の感情をも知らせる、そしてそのように想像力に訴えるものです。

 じっと見ていると、動いている時間の1コマを感じさせます。さっきまで動いていた人や風景や、そこで1コマ止まったもの、そしてまた動き出していく、それが浮世絵となっているのです。