投桐透図鐔 西垣勘四郎
投桐(なげきり)あるいは踊桐(おどりぎり)と呼ばれる意匠がある。枝桐を投げ置いたような、不安定な、微妙な均衡が魅力の、専ら透かし鐔に採られたデザインの一つで、肥後金工林又七(はやしまたしち)の創案になるものと考えられている。投桐の呼称の背景にあるのは、筆者が鑑賞した上での印象だが、浅鉢に枝桐を投げ生けたような、茶と生花の美意識を見出せる点にあろうかと考えている。だが、写真例のように丸窓から眺めた桐樹の作、また、幔幕を想わせる引両と桐を組み合わせた作もあり、優れた意匠や作品も多いことから、意匠に固執せず各金工の個性と資質による発想とその展開を楽しんでほしい。
肥後金工の中で桐を題に印象的な透かし文様を表現した工として著名なのは又七よりも西垣勘四郎(にしがきかんしろう)とその一門、後の肥後金工、肥後金工の影響を受けた赤坂鐔工、土佐明珍派などで頗る多い。
写真例は西垣勘四郎の投桐透図鐔。勘四郎は慶長十八年豊前国中津に生まれ、細川家お抱え金工平田彦三の門下で学び、独立して自らも細川家の抱え工となる。寛永九年には細川家の肥後国移封に伴って八代に移住し、独特の風合いのある平面世界を追及した。勘四郎もまた、利休に茶を学んだ細川三斎忠興の美意識を基本理念とした工である。
又七の投桐透鐔は、耳によって囲まれた画面が丸く簡素に造り込まれ、鉄地の所々に鉄骨が現われるなど、古風でしかも武骨、緊張感に満ちみちた趣がある。ところが勘四郎の同図には歪(ひずみ)を配した空間構成が試みられていることが窺い知れる。歪とは手捻りの茶器にみられるように、微妙な安定感を突き詰めたところに美観として漂いくるものがある。
緊密に詰み澄んだ良質の鉄地を、勘四郎に特徴的な泥障(あおり)風に下半が脹らんだ造り込みとした自然味横溢の作。鉄肌は色合い黒く光沢強く、微細な石目地仕上げとされた表面に自然な錆が均一に付き、肌合い引き締まって堅固な質感、覇気が感じられる逸品。ごくわずかだが歪とも抑揚とも感じられる耳の線によって切り取られた平面には、飾り気のない空間に華を感じさせる肥後金工の美が漂っている。
投桐(なげきり)あるいは踊桐(おどりぎり)と呼ばれる意匠がある。枝桐を投げ置いたような、不安定な、微妙な均衡が魅力の、専ら透かし鐔に採られたデザインの一つで、肥後金工林又七(はやしまたしち)の創案になるものと考えられている。投桐の呼称の背景にあるのは、筆者が鑑賞した上での印象だが、浅鉢に枝桐を投げ生けたような、茶と生花の美意識を見出せる点にあろうかと考えている。だが、写真例のように丸窓から眺めた桐樹の作、また、幔幕を想わせる引両と桐を組み合わせた作もあり、優れた意匠や作品も多いことから、意匠に固執せず各金工の個性と資質による発想とその展開を楽しんでほしい。
肥後金工の中で桐を題に印象的な透かし文様を表現した工として著名なのは又七よりも西垣勘四郎(にしがきかんしろう)とその一門、後の肥後金工、肥後金工の影響を受けた赤坂鐔工、土佐明珍派などで頗る多い。
写真例は西垣勘四郎の投桐透図鐔。勘四郎は慶長十八年豊前国中津に生まれ、細川家お抱え金工平田彦三の門下で学び、独立して自らも細川家の抱え工となる。寛永九年には細川家の肥後国移封に伴って八代に移住し、独特の風合いのある平面世界を追及した。勘四郎もまた、利休に茶を学んだ細川三斎忠興の美意識を基本理念とした工である。
又七の投桐透鐔は、耳によって囲まれた画面が丸く簡素に造り込まれ、鉄地の所々に鉄骨が現われるなど、古風でしかも武骨、緊張感に満ちみちた趣がある。ところが勘四郎の同図には歪(ひずみ)を配した空間構成が試みられていることが窺い知れる。歪とは手捻りの茶器にみられるように、微妙な安定感を突き詰めたところに美観として漂いくるものがある。
緊密に詰み澄んだ良質の鉄地を、勘四郎に特徴的な泥障(あおり)風に下半が脹らんだ造り込みとした自然味横溢の作。鉄肌は色合い黒く光沢強く、微細な石目地仕上げとされた表面に自然な錆が均一に付き、肌合い引き締まって堅固な質感、覇気が感じられる逸品。ごくわずかだが歪とも抑揚とも感じられる耳の線によって切り取られた平面には、飾り気のない空間に華を感じさせる肥後金工の美が漂っている。