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この子がマッチ売りの少女だったなんて

2009-12-27 22:05:18 | Diaries
1月1日の朝になってみなければわかりません。

駅前でティッシュ配りをしていた人物が記憶のかけらに残っていないのと同じで、12月31日の夜に街路でマッチ売りをしている人物を気にとめる人などいません。

仕事している間は誰にも見向きされないですけれど、死んで動かなくなっていたら街の人だってさすがに「おい、このこ死んでるよな」「死んでるよ」とざわめくことになります。

このこはあきらかに今私が必要とはしていない物品を販売しています。

現代の社会でも旅先などで容易に目にすることのできる光景です。

街っていうのは人の住んでいる居住区や商業施設がごっちゃになっているところで、店の前で人が死体になっていたりしたらそれはもう縁起でもないとんでもない話です。

こんなところで死なれちゃ迷惑だから、やむなく大騒ぎするしかないという状況に直面する人もいるでしょう。

クリスマスやおおみそかの前までは寝泊りしているところがあった人が、急に寝泊りしていた場所へ戻れなくなったというようなこともあるかもしれません。

子供が10人産まれたら、おとなになる頃にはみんなどこかで寝泊りしているようにと支えます。

どこかで生活を送ることができるようにと支援するわけです。

誰もがこのこと同じ屋根の下で寝泊りすることを嫌がるというようなことがなければよいと思うものです。

同じ空間の空気をすうのもいやというのは、必ずしも相手がタバコを吸っているからとかいうようなことではなくて、相手の挙動ひとつひとつがいちいち日ごろの生活の上で差し障りとなり、せっかくの苦労も台無しと思えるようなことしか残らないためではないでしょうか。


このおとこの挙動を許容できるのはごく限られた特殊なひとに限られる。

このおんなの挙動を許容できるのはごく限られた特殊なひとに限られる。

誰でもいっしょに社会生活(職場生活)、共同生活(家庭生活)を営めるというものでもありません。

わたしぶっちぎりますよオーラを醸しだしているという例がみられるのは、気をつかうのはこれこれこちらのほうだという指定が行われているためとみられます。

今まで実際に気をつかうということに対応してきた誰かとのコミュニケーションの一部にすぎないということもあるものです。



「マッチ売りの少女」

童話作家 ハンス・クリスチャン・アンデルセン 1848年発表