さざえのつぶやき

音楽活動を中心に、日頃の思ったこと感じたことを日記のように綴っていこうと思います。

まとめられない音楽活動歴

2018年04月29日 | 下手の歌好きソングライターのつぶやき
昨夜のScarFaceライブの帰りに、いろんな事を回想しながら家に帰ったこともあって、久しぶりにこの放置状態だったブログに、僕が歌うようになったきっかけ?みたいなものを書こうと思う。 映画音楽とフォークソングしか聴かなかった僕が、中学生の頃、TULIPの「虹とスニーカーの頃」を聴いたのが始まりかな? ギターを持ちたくなって、とりあえず歌いたかったのでMBSラジオ、ヤングタウンCMの「ギターはモーリス、モーリスギター」に洗脳されてモーリスW-25を朝刊配達で買った。はじめて弾けた曲が五十嵐浩晃「ペガサスの朝」だったかと・・・もちろんTULIP「青春の影」「サボテンの花」は今でも譜面なしで歌える程歌いまくったな。



小学校2年からの腐れ縁的友達の阪本君(通称Qちゃん・・・僕はさかやんと呼んでいる)の家にあったガットギターで、近所の変わったオッサンの歌「ないけ?」や、「グリコ森永事件の歌」阪やんと俺との共通の連れを題材に歌った「呪われとる~ん」など、とにかく身内しかわからないコミックソングを彼の家で即興で歌っては、カセットテープに録音されていた。(苦笑) 

21、2歳の頃、永田・阪本・安藤(女性)の3人でフォークバンド?「我流人」を結成し、当時誰がきっかけで知ったか「サウンドシャワー」というサークルに加えてもらうようになった。(現在のMATOさんである河内さんが主催の音楽サークル) このサウンドシャワーは結構今から思うと僕にとっては刺激的だったかも知れないなぁ。河内さん率いるバンド「MAKOTO-BAND」でベース弾かせてもらったり、エレキ弾かせてもらったり、まあとにかく今よりもっと歌もギターも下手だったから、河内さん(MATOさん)には「おい、永田、ここ、お前弾くな!!」みたいな(笑)でも僕にリードギターの楽しさを教えてくれたのは河内さんだな。アドリブで決まったフレーズが弾けないところまで似ちゃったけどw で、それから間もなく「俺の居場所じゃないな。」とそのバンドを抜けて、「ギターマガジン」「バンドやろうぜ!」という二つの雑誌を通じて自分でバンドを組むことになる。
ちょうど結婚したての26歳ころだったかな、雑誌のメンバー募集で堺市や奈良市、生駒市の人たちと出会ってはなかなかうまく行かず、運命的な出会いというか、息ぴったりの相方と知り合ったのは28歳の頃、枚方市から送られてきたデモテープで決めた、やだまさし君だった。 最初は彼とふたりで「我流人」を再び名乗り、後に彼の彼女Yukariをドラムに入れてバンド名を「と~てむ」に改名、Yukari脱退後、濱田(ドラム)・東出(ベース・弥田(エレキ)・彼女(キーボード)・永田(アコギ)の5名で組んだのが最後だった。
相棒の やだまさし の結婚を境にバンド活動は事実上解散、それから数年、僕の耳に入って来た元彼女Yukariからの電話は やだまさし(急死・当時40歳)



その頃、僕は弾き語りサークル「HONA」(ひろせまさゆき主催)のメンバーに出会い、ひろさん、みどさん、ちゅうねんさん達に出会い、生駒市内にあった「BadBoys」というライブカフェをホームにソロライブで歌っていた。その頃に出会ったのが、竹中耕夢店というバンドの竹中君、園部君(そっさん)や、真ちゃん和ちゃん、前ちゃん印、竹本信幸くん、ゾロさん他、今現在もお付き合いしていただいてるいろんな人たちと出会うことが出来た。そして竹本君が主催しているチャリティーイベント「LOVE YOUTHFUL PARK」では、ゆはず君(きりん)、福岡君、Akira(美香ちゃん)達と出会い、またメンバーからオリジナル作品を集めては一枚のCDにする活動「ならフォーク村」を立ち上げたのもその頃、平成6年だった。 BadBoysがなくなってからは歌うのはScarFaceが中心だったかな? PickやBillyといった奈良の店を知るまでは。 ScarFaceでは、翔ちゃん、佑介、͡古賀ちゃん達と出会い、ここでもたくさんの音楽仲間と知り合えた。

そして池田屋を通じて知り合った、現在の相棒、勝さん。



こうして33年の活動を半分箇条書きで書き込んでいくと、あれもこれも書き忘れが後で思い出してしまい、書き込めないくらいの出逢いがあるんだよなぁ・・・確かに行動したのはこの僕だけど、どの店のマスターにも、そしてそこで出会った人たちにも感謝を忘れてはならない・・・人が人を呼び、繋がり、人生を豊かにする。 人との出会いに感謝!!