こういう時代だから、僕みたいに深く考えることは、ナンセンスなことなのだろうか?
自分でホームページを作って、出会いを求め、「自分発信」し出したのが2002年。
それから多くの仲間と知り合えたし、確かに豊かな人生を過ごしている。
相棒が死に、歌うことすら辞めようかと思っていた自分が、いまこうして音楽を続けてられるのも、ネットのおかげだとも確信している。
でも、インターネットを始めだした頃から今日までの中で、せっかく知り合えたのに、いつの間にか連絡のとれない状態になってしまった人々がいる。
中には、自分がコンタクトをとっていなかったが為に、相手も愛想つかしたのか、連絡先が変わっても知らせてもらえなかった人もいるだろうし、こっちからネット環境が変わった際に、連絡するのを忘れてしまった人もいるだろう。 なんてことだ!! せっかくの出会いをこんなにも簡単に扱ってしまうなんて!!
療養中の時間を使い、過去のデーターや郵便物を手に取りながら、何人かにコンタクトを試してみたが、連絡がつかない人が何人もいる。
僕はいま、こうしてブログを書いたり、ホームページを持ちながら音楽仲間とつながりを持っている。 また、これから先も、新たなつながりを求めている。
でも、その反面、自分自身にいつも問いかけている・・・「簡単に出会うのはいいけど、本当にその人とのつながりを大切にしていけるのか?」
ちょっと前までは、mixiを利用していた。 一時、友達登録が150人近くなってしまった。 でも、その中には、あるイベントで一言、三言喋っただけなのに、簡単にお互いmixi登録した人もいたし、そんなんだから、何か特別なことがない限り、ずっとその人とは会うことがない状態。だからといって、自分からまめにそういう人たちとコンタクト取り合うことは事実不可能なこと。 じゃ、なぜ簡単に自分も友達登録してしまうのか?
そう考えたときに、「自分がライブ活動をするにあたって、とりあえず繋がっていおけば、お客さんの一人になってもらえるかも知れない。」 そう思ったことも事実だ。
なら、反対に自分から先にそういう行動を起こすべきだろう、自分からその人たちに会いに行くのが礼儀だろう、あたりまえだろう・・・そう考えると自分がしていたことは、なんて失礼なことをしていたのか? そんなの「出会い」と呼べるのだろうか?と何度も思い、最後にはリアルに付き合っている人としか友達登録をしないようにしたが、それでも100人を超すことになり、これだったらリアルにつきあっているのなら、別にmixiで繋がっていなくてもいいんじゃないかと思ったのと、暇さえあれば仕事中であろうがどこでもサイトを開いてチェックしてしまう、滑稽なある意味中毒、依存症的な自分が嫌でmixiは脱会した。
でも以前、ならフォーク村のメンバー、KADOYAくんにこういう話をしたときに言われたことがある。「ながたさん、そんなんいうけど、俺とながたさんが知り合えたのは、mixiでながたさんが、俺を検索して見つけてメッセージ送ってくれたからやで・・・」とね。(苦笑)確かに・・・。
いままたフェイスブックというものを利用している。
これはまたmixi以上に、いろんな方法で、昔の同級生や、知人を見つけることが出来たり、簡単に繋がりを知らせてくれる機能がある。 いまのところ慎重に利用しているのだけれども、手を出してしまうのは、「便利」以外のなにものでもない。
僕は決して、ネットの出会いを否定しているのではない。
ただ、そう簡単に人と出会ってしまっていいのか?という疑問と、繋がってるという液晶画面上の錯覚によって、安心してしまうことの恐ろしさを自覚しておきたいだけなんだ。
そもそも、『出会い』には、『感動』がつきものだという理念が僕にはあるのだろう。
街角で偶然、何年ぶりかに久しぶりにあった同級生であったり、ふとしたきっかけで、そのまま、つきあいが始まった人であったり・・・。
本当の意味の「出会い」って、何なのだろうか? と今また考えてしまう。
自分が一番、ネット環境を駆使しているくせにね。
インターネットの時代、出会いの意味や定義、方法が変わってしまったのかな。
出会えた人とのつながりを、大切にしていきたい、人間らしさを大事にしたい。
それが難しいなといつも思う。
自分でホームページを作って、出会いを求め、「自分発信」し出したのが2002年。
それから多くの仲間と知り合えたし、確かに豊かな人生を過ごしている。
相棒が死に、歌うことすら辞めようかと思っていた自分が、いまこうして音楽を続けてられるのも、ネットのおかげだとも確信している。
でも、インターネットを始めだした頃から今日までの中で、せっかく知り合えたのに、いつの間にか連絡のとれない状態になってしまった人々がいる。
中には、自分がコンタクトをとっていなかったが為に、相手も愛想つかしたのか、連絡先が変わっても知らせてもらえなかった人もいるだろうし、こっちからネット環境が変わった際に、連絡するのを忘れてしまった人もいるだろう。 なんてことだ!! せっかくの出会いをこんなにも簡単に扱ってしまうなんて!!
療養中の時間を使い、過去のデーターや郵便物を手に取りながら、何人かにコンタクトを試してみたが、連絡がつかない人が何人もいる。
僕はいま、こうしてブログを書いたり、ホームページを持ちながら音楽仲間とつながりを持っている。 また、これから先も、新たなつながりを求めている。
でも、その反面、自分自身にいつも問いかけている・・・「簡単に出会うのはいいけど、本当にその人とのつながりを大切にしていけるのか?」
ちょっと前までは、mixiを利用していた。 一時、友達登録が150人近くなってしまった。 でも、その中には、あるイベントで一言、三言喋っただけなのに、簡単にお互いmixi登録した人もいたし、そんなんだから、何か特別なことがない限り、ずっとその人とは会うことがない状態。だからといって、自分からまめにそういう人たちとコンタクト取り合うことは事実不可能なこと。 じゃ、なぜ簡単に自分も友達登録してしまうのか?
そう考えたときに、「自分がライブ活動をするにあたって、とりあえず繋がっていおけば、お客さんの一人になってもらえるかも知れない。」 そう思ったことも事実だ。
なら、反対に自分から先にそういう行動を起こすべきだろう、自分からその人たちに会いに行くのが礼儀だろう、あたりまえだろう・・・そう考えると自分がしていたことは、なんて失礼なことをしていたのか? そんなの「出会い」と呼べるのだろうか?と何度も思い、最後にはリアルに付き合っている人としか友達登録をしないようにしたが、それでも100人を超すことになり、これだったらリアルにつきあっているのなら、別にmixiで繋がっていなくてもいいんじゃないかと思ったのと、暇さえあれば仕事中であろうがどこでもサイトを開いてチェックしてしまう、滑稽なある意味中毒、依存症的な自分が嫌でmixiは脱会した。
でも以前、ならフォーク村のメンバー、KADOYAくんにこういう話をしたときに言われたことがある。「ながたさん、そんなんいうけど、俺とながたさんが知り合えたのは、mixiでながたさんが、俺を検索して見つけてメッセージ送ってくれたからやで・・・」とね。(苦笑)確かに・・・。
いままたフェイスブックというものを利用している。
これはまたmixi以上に、いろんな方法で、昔の同級生や、知人を見つけることが出来たり、簡単に繋がりを知らせてくれる機能がある。 いまのところ慎重に利用しているのだけれども、手を出してしまうのは、「便利」以外のなにものでもない。
僕は決して、ネットの出会いを否定しているのではない。
ただ、そう簡単に人と出会ってしまっていいのか?という疑問と、繋がってるという液晶画面上の錯覚によって、安心してしまうことの恐ろしさを自覚しておきたいだけなんだ。
そもそも、『出会い』には、『感動』がつきものだという理念が僕にはあるのだろう。
街角で偶然、何年ぶりかに久しぶりにあった同級生であったり、ふとしたきっかけで、そのまま、つきあいが始まった人であったり・・・。
本当の意味の「出会い」って、何なのだろうか? と今また考えてしまう。
自分が一番、ネット環境を駆使しているくせにね。
インターネットの時代、出会いの意味や定義、方法が変わってしまったのかな。
出会えた人とのつながりを、大切にしていきたい、人間らしさを大事にしたい。
それが難しいなといつも思う。