11時10分過ぎに「ならどっとエフエム」のスタジオに着き、Cafeの可愛い女性に番組担当の若杉さんを呼び出してもらった。 「ああ~お久しぶりです~」とアットホームな雰囲気で冷たい麦茶をいただきながら本番前の打ち合わせ・・・番組開始の5分前にスタジオ入りでヘッドホンをすると、なんとなく芸人になったような気分で緊張どころか、ワクワク気分になっていた。8年前の緊張した姿は今どこに・・・番組進行は自分の活動と「ならフォーク村」コンサートの告知を、持ってきたオリジナル音源3曲を挟みながらのオンエア、はずかしながらまた奈良の夏の空を汚してしまいました。(苦笑)
放送終了後、少しビジネスの話をした後、あまりにも暑いので奈良ビブレ地下の啓林堂書店へ涼をとりに入った。 そこで何気なく手にとって読んだ石垣りん詩集。
詩集というものにさほど興味を持たない自分であるが、なぜか家には「中原中也」「まどみちお」両名の詩集だけは数冊ある。あ、「やまだかまち」「岡 真史」もあったな。(苦笑) 石垣りんさんと言えば、中学か高校の時に授業で触れたくらいで、その頃はとんでもないことに、顔写真に落書きをしていた覚えがある・・・(汗)
何気なく開いたページは「屋根」という詩だった。 そして次の頁には「貧乏」・・・難しくないありふれた言葉が運ぶ先に、一瞬にして自分の過去の情景が脳裏に降りてきた。
知らぬ間に溢した涙が本の上に落ちてしまった。
僕は吉野郡大淀町に生まれ育った。 鮎釣りで賑わう吉野川の近くに家はあった。
トタン屋根で二間しかない小さな家だった。 よく近所の子供達がおもしろがって「貧乏、貧乏」と言って石ころを屋根に投げつけるものだから、よく母親が外に飛び出して怒鳴り散らしていた。
雨が降ると、その雨粒の大きさによっては、家の中のテレビの音が消されてしまうし、よく押入れの隅や、台所の隅から雨漏りがしていたのを思い出す。
夜になると、アブラムシ(ゴキブリ)がよく飛び交うし(苦笑)、いつだったか朝起きたらネズミが布団の下敷きになって死んでいたこともあった。 そんなとんでもない家に、親子5人が住んでいたわけで、ただあたりまえの事だが、親父はそれでよしと思って僕達家族とそこに住んでいたわけじゃない、そこには戦争だとか伊勢湾台風といった親父の暗く重い過去が、しがらみがつきまとっていたようだ。 でも貧乏には間違いない暮らしだった。 親父は長距離トラックから土方仕事、大工の手伝い、そして最後にはボロ買い(ようするに現在でいう廃品回収)と収入も安定せず、おまけによく仕事中に大怪我をしてなんどか入院もしていた。 その痛みを抑えるためだとか言っていたが、酒に溺れる毎日が続いた次期もあった。 それは言うまでもなく、貧しさからくるやりきれない思いが、酒と言うものに逃げていただけだ。
酔っ払って帰ってきては、母親と喧嘩になり、母を殴る蹴るの場面をしょっちゅう僕と妹の3人は見ていた。 酷い時には、家に居たら殺されるかもしれないからと、母に手を引かれては、知り合いの家に朝まで泊めてもらったり、行き場が無い時には、駅の宿直室まで借りて寝た記憶がある。
とにかく、家にはお金が無かった。 米代が払えず、米屋の主人が集金に来るといつも母が「来たらおらんて言うて帰して・・・」と僕らに頼んで、外にあった「ぽっとん便所」に隠れるのである。(苦笑) 電話もよく「お客様の都合により現在・・・」というアナウンスを友達に聴かれては、「ああ、いま調子悪くて修理してもらってるねん」という見えすぎた嘘を毎回つく始末。 そんなだったから、物心ついた頃には、僕も妹も新聞配達を始め、せめて自分達だけは、友達に恥をかきたくないからという理由で、自分の欲しいものは自分達で稼いで買うことを覚えたものだ。
最初に出来た彼女なんか、家を知られたくないものだから、ずっと教えなかったのに、あるクリスマスの夜、仕事から帰ってきたら「これ、●●さんて女の子が来て、家族で食べてくださいって置いていかはったよ」とクリスマスケーキが届けられていた時は、恥ずかしくて恥ずかしくて、一晩中悔やんだこともあった。 そんな家に住んでいた頃の事を、今でも兄妹が揃うときは苦笑いしながら話す。 「瓦の屋根の家に住みたい」それが兄妹の願いだった。
親父は素面の時は、物静かな「吉本新喜劇」と「8時だよ全員集合」が好きなひょうきんものだった。 近所の友達に電話口で仏壇の鐘を鳴らしてイタズラ電話をかけたり、104番号案内の女性と世間話をしようと企むやっかいものだった。(笑)
ただ、そんな親父にはひとつの疑惑がある。
家によく出入りする親父の友達の中に、やっかいな仲間がいたからだ。
外に便所があるのをいいことに、よくガラスコップに水を入れて、ある道具を持ってそのトイレに行く・・・そう、注射器だ。 子供ながらも何をしているのかは解っていた。
親父が亡くなった後、特定人物の捜査で、家に私服の警察官が2名来たことがあった。
その時、親父の寝ていた側のタンスから器具は見つかった。
・・・嫌だった。
そんな仲間が来る夜に限って、親父は素面で物静かだったし、そんな連中を台所の包丁で殺してやりたいと何度も思ったことがあった。
僕が20歳になった年の夏、親父は酒の飲みすぎで肝硬変となり死んだ。
もちろん、生命保険もかけていなかったわけで、勤め出した会社に無理言って借金をしてなんとか葬式は済ませた。 その後、近所からは「葬式出来たのは、近所のみんなのおかげなんやから、あんたら兄妹は一生、わたしらに頭下げていかなあかんねんで」とまで言われたのもあるが、もともと親父の土地ではなかった事もあって、兄妹で光熱費を出し合えば賃貸でキレイなとこに住めるぞと母親には引越し前日まで知らせず第二の生活がその後始まることになり、大和高田市という街に住むことになる。
電車の中でずっと、そんな頃のことを回想していた。
今では、普通に暮らせることだけでも天国なはずなのに、贅沢を覚えてしまったせいなのか、飽食の時代のせいなのか、ぶくぶく太った情けない醜い自分がいる。
石垣りん詩集・・・この本からそんな懐かしいニオイがしたのだろう、濡らせてしまったものだから、ちゃんとレジに向かい、買ってかえりました。
ちょっと今日のブログはハードだったかな・・・ま、いいか。