戦争の加害。深い意味がある。アジア太平洋戦争で大日本帝国は加害者だった。「戦争責任」加藤周一や家永三郎が著書の表しているように。責任は国家のみならず、侵略国であった、大日本帝国の臣民にもある。日本国民にもあるのだ。
その加害責任を問うパネル展である。今年で第7回だったが、僕がパネル展を見るのは4回目だ。
展示内容が多彩だ。「日本の戦争加害の歴史・概要」「平頂山事件と満州国」
「731部隊」「毒ガス兵器」「『満州』に集団移住させられた朝鮮人」
「南京大虐殺」「重慶無差別爆撃」「マレー侵略」「日本軍『慰安婦』」
「朝鮮人・中国人強制連行」「沖縄戦と棄民化された人々の記憶」「『特集展示』軍都・広島と戦争加害」。展示が多彩なのは日本と日本人の加害責任がそれだけ大きいということだ。
展示を見に行った最初の2回はただ驚くばかり。3回目の昨年は、日本軍の細菌戦研究には、731部隊という人間向けのものと、100部隊という家畜向けがあるのを知った。
ことしは『特集展示』に注目した。広島は被爆地だ。しかし軍都でもあった、軍需産業で栄えた街であり、強制連行の中国人・朝鮮人を酷使する街だった。また被爆による死者の10人に1人(たしかそう解説されていた)、戦勝の度に提灯行列を行い全国の模範とされた街でもあった。
その意味で「広島には戦争加害と戦時暴力」があった。これにいち早く気づいて、被害国に謝罪の訪問活動をしている日本人被爆者がいる。
だから「ノーモア・ヒロシマ」という場合「ヒロシマが加害を繰り返さない」という思いが必要なのではないか、という主催者の問題提起だ。
僕には心当たりがある。韓国のメディアが広島の平和記念式を報道する際「この日、この場所では加害者が被害者となっている」とのナレーションを入れていた。「広島の戦争加害と戦時暴力」をふくめて「ノーモア・ヒロシマ」と言って、はじめて韓国や中国の人たちも、何のこだわりもなく「ノーモア・ヒロシマ」の言葉に共感できるのではなかろうか。