還暦というのは、数えで61になる春分の日だそうだ。45で大病をした。胃癌だ。正直死ぬと思った。病院で診断が告げられたその夜に、「星座」の尾崎主筆に手紙を書いた。
「歌集を出したい。」
短歌を始めて3年目か4年目。歌集を出すにはまだ早かった。尾崎主筆に、巻頭の推薦文をお願いしたが、難航した。僕は「運河」にも在籍していたから、その関係だろう。
巻頭の文にも「今、歌集を出して、歌境が判断されてしまうのが、良いかどうかは分からない。しかしこの、直情径行の岩田氏が歌集を出そうというのだから、それは一つの機である。」と書かれた。決して褒められていたのではない。もともと歌集を出す意思ははなかった。「死ぬかもしれない」という思いが強かった。だから生きている証として歌集を出したかった。第一歌集「夜の林檎」である。
しかし病気を売り物にはしたくなかった。意地である。「あとがき」にも病気のことは一切ふれなかった。なんだか生意気なことを書いた記憶がある。売ることが目的ではなかったからだ。
だから「短歌で1000万稼がなければ歌人とは言えない」などという言葉を聞くと無性に腹が立つ。頑固なのだ。尾崎主筆の巻頭の文章にも「岩田氏は情を抒べるのが上手くない。だが変に丸くなってくれるな。」と書かれた。いまでも自分にしか詠めない歌を詠えといわれる。これがいいのか悪いのか。自分でも判断がつきかねている。
第二歌集の「オリオンの剣」も病気とセットだった。鬱病で体が満足に動かなかったのだが、尾崎主筆が「椿くれなゐ」を刊行し、「後記」に「闘いは終わった。自分で編む歌集はこれが最後になるだろう。」と書かれているのを読んで、がぜん力が出た。一晩で選歌と校正を終わらせ出版社に入稿した。評判が立ち始めたころ、緊急入院した。肝機能不全である。無念だった。医師に入院を3日遅らせてくれと頼んだ。しかしあえなく却下された。「命の保証はできない」これでは致し方ない。
「悔しい、悔しい」を連発しながら車椅子で病棟へ運ばれた。退院してから「オリオンの剣」に収録できなかった作品を「剣の滴」にまとめた。作品としてはこの方が完成度が高かったようで、「オリオンの剣」の拾遺の積りが意外だった。
「オリオンの剣」と「剣の滴」。両方とも横浜歌人会の賞の受賞の候補作となったが、審査委員に献本できなくて選考から外れた。
「詩人の聲」というプロジェクトに参加して声量がついて気力が回復したときに出したのが、第四歌集の「聲の力」だった。この時は刊行後のパワハラがあって健康を害した。意地を張って表紙も美術的センスのない僕が決めたので成功とは言えなかった。実験作も不完全燃焼だった。
なんだか歌集出版の裏話のようになってしまったが、これも「丸くならない。岩田亨」という頑固者の人間性が嘘なく出ていると思う。
短歌は詠嘆であると斉藤茂吉も佐藤佐太郎も言う。過去に経験した悲しい思いを作品にすることが多い。「悲しい」はもういいでしょう?と言われたりもする。だが僕は僕。この作品の特徴は変わらないだろう。