天童大人プロデュース「詩人の聲」第999回 高橋睦郎 於)数寄和
数寄和は西荻窪にある画廊だ。西荻窪は不思議な街だ。昔ながらの商店街、例えば肉屋さんがあるかと思うと、画廊がある。4~5件の画廊があったようだった。
高橋睦郎は、僕の著作「斎藤茂吉と佐藤佐太郎」の執筆、いや、このブログを始めるきっかけを作ってくれた人だ。しかも歌人、俳人、詩人である。その人の作品を「肉声で」是非とも聞きたかった。
高橋睦郎の「詩を聞く会」の案内を、数寄和が出していた。それを先ず、紹介しよう。
数寄和の紹介文。
「詩を聴く会です。是非お楽しみください。」
そして、その紹介文の裏に、高橋睦郎のメッセージが書いてあった。
「僕の詩作の出発点であり、それだけに大切にしすぎて、ほとんどテーマにしたことがなかったギリシア。ことし4月末から5月末にかけて一か月、30年ぶりにギリシア本土とエーゲ海を巡ってきました。そこから生まれたほやほやのエスキースたちを口切に、これまで書いてきた世界各地の旅の詩を声に出してみたく思います。聞いていただけましたらうれしいです。」
このメッセージが、一編の詩になっている。
以前、高橋睦郎の講演を聞いたとき、「僕の詩の原点は、亡くなった祖母だ。祖母の霊が・・・。」などと言う言葉を聞いたので、作品は祝詞のようなものかと思ったのだが、「ギリシア」という事もあって、西脇順三郎的世界だった。
画廊というのはそんなに広いものではない。10畳間ほどの空間に、油絵が展示されている。そこに高橋睦郎の若々しい声が響いた。
詩は10篇ほど読まれた。そのあいだに語りが入るのだが、その語りも面白かった。詩の背景を話すのだ。「聞く会」だから、僕は目を閉じて聞いていた。
「心地よい」の一言だった。「詩は耳から聞いて心地よくなければならない。」これが再発見の一つだった。心地よい原因はリズム感だ。そして耳で聞いて心地よいものは、口に出して読んでも心地よい。「詩は音声の文学」だと思った。
この企画は、天童大人のプロデュース「詩人の聲」だが、プロジェクトの目的は「肉声の復権」だった。高橋睦郎の「朗唱」を聞いて、改めて「詩とは耳に聞くもの」だと再確認した。
「星座」の尾崎左永子主筆が、「耳から聞いて分かるかしら」とよく批評する。これは短歌のみならず、「詩」全体に当てはまるものだと思った。
そして2次会。俳壇、歌壇、詩壇、文壇の話を聞けた。そこで発見がもう一つ。このプロジェクトの会場が、画廊である点。
「この頃は『詩文集』というものがない。画家が詩を読まないからだ。」これにも納得がいった。歌人に置きかえれば「歌人は短歌の本しか読まない」(そういう人が多い)。昔は、文人が俳句や短歌を詠んだ。「文人短歌、文人俳句」というが、こういうものもなくなっている。芸術の相互交流がなくなっている。これはどの芸術にとってもマイナスではないかと思った。