岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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梅雨明け前後に思う:③命の尊厳

2020年08月03日 17時53分59秒 | 政治経済論・メモ
ある憲法学者の講演を聞いた。そこで「日本国憲法の核心は何か」という話題となった。その憲法学者も答えられなかったことだったと言っていたが、日本国憲法の核心を一言で言えば、「全ての人間には個人としての尊厳がある」だという。あらゆる人権、主権の所在、憲法9条は根底にこのことがある。

 この「全ての個人の人間としての尊厳」を考えさせられる事件があった。

 二人の医師が金銭の報酬と引き換えに難病患者を「安楽死」させた。これは自殺ほう助、殺人罪の疑いで逮捕された。

 国政政党の参議院の候補者だった政治家が「政治の役割は命の選別にある」と発言して、政党を除籍になった。

 それぞれ言い分があるようだか、二人の医師の行動は決して許されないし、政治家の発言、「本意の説明」には首をかしげるばかりだ。

 政治家は「命の選別」をしてはいけない。「尊厳死、安楽死」の問題を考えよう。ということなら理解できる。それは「命の選別」とは全く異なる概念だ。主観的に考えていても社会的に使われている概念は全く異なる。ぼくは本人の話を街頭で聞き、YouTubeでも聞いた。釈明の画像も質疑応答を含めて聞いた。首をかしげるばかりだ。

 「尊厳死」については、「生前に臓器提供カード」のようなものに、本人の自筆で意思を書き込んで、必要ならば確認できるようにしておくべきだと個人的には思う。だがそれには、法整備が必要だ。「臓器提供」も度重なる法改正を経て、今、認められているだけの臓器が提供できるようになった。かつてなら死体損壊の刑法犯だった。

 しかし、こういう議論もある「死ぬ権利は認められない」「死ぬ権利を認めるまえにだれでも生きられる社会をつくるべきだ」。ここは議論の分かれるところ。幅広い議論が必要だ。

 だからこそ軽々に「命の選別」を口にした政治家は批判されてしかるべきだし、二人の医師の動機「直る見込みのない患者の命を絶っても構わない」というのは許しがたい。医学は日進月歩。直る見込みがいつ見つかるかはわからない。

 かつては「死の病」と言われていて今は治療法が確立した病は、一つや二つではない。

 僕自身が病気のデパートのようなもの。元の体には戻らない。それだけに切実だ。









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