岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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赤鉛筆の歌:茂吉と白秋(2)

2010年02月01日 23時59分59秒 | 斎藤茂吉の短歌を読む
茂吉と白秋の「赤鉛筆の歌」を比較した場合、抒情の質が違うものの明らかに白秋の作品のほうが完成度が高い、と僕は思う。

 第一。「印象鮮明なるがよし」と言っていた茂吉だが、白秋の作品のほうが色彩において「印象鮮明」である。(紅と鮮やかな緑が補色関係にあり、たがいに鮮明ならしめることは、前回述べた。)

 第二。茂吉の「赤鉛筆の歌」は代表作とは言い難い。この作品は「赤光」のなかの他の作品と比べて見劣りがする。「当否を決するのは時間と呼ぶ畏るべき批評者」とは塚本邦雄の言葉。この塚本邦雄著「茂吉秀歌-赤光百首」、佐藤佐太郎「茂吉秀歌・上」、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」のいずれもとりあげていない。本林勝夫「現代短歌」でも、茂吉の作品は白秋の作品の解説に出てくるにすぎない。「時間と呼ぶ批評者」に耐えられなかったのである。

 原因は明らかである。茂吉が表現しようとした心情と、赤鉛筆という対象の印象がしっくり来ないのである。茂吉が医者であることをもって赤鉛筆の色と人間の血を結びつけて読む見解もあるが、茂吉は精神科医である。外科医ならまだしも「赤鉛筆の色=血の色の印象」を結びつけるのには無理がある。茂吉は「くれなゐ」という表現をしているが、紅すなわち鮮紅色の血は動脈血だけである。つまり血液の色は「くれなゐ」ではない。

 「めん鶏と剃刀研人」「たたかいと鳳仙花の赤」「ゴーギャンの自画像と山蚕を殺した記憶」など直接関係のないものを、「力技」(塚本邦雄)でつなげた茂吉である。特に「たたかいと鳳仙花」の歌は松村由利子が、< 疎句 >の代表としているように成功例である。しかし、「赤鉛筆の色」と「慎ましいこころ」の印象の組み合わせは印象が曖昧である。

 とはいえ斎藤茂吉の作品である。標準以上の完成度をもっていることは言うまでもないだろう。

 「赤鉛筆の色」は白秋の作品に見られる甘美なセンチメンタリズムに、よりふさわしかったとも言えるともいえるのではなかろうか。(終り)








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