佐藤佐太郎が「茂吉晩年の歌」でとりあげた38首(「つきかげ」)のなかで、「文句なしに良い」としているものが一首、「新しく工夫したもの」としているものが六首、「閃きのある歌」とするものが六首という具合だが、ほめているばかりではない。ハッキリ言えば「駄作」も混じっているというのだ。
<安易に終わった歌>
・人間は予感なしにやむことあり癒れば楽しなほらねばこまる・
上の句で読者になにがしかを期待させるものの、下の句が拍子抜けである。佐太郎は「にわかに賛成するわけにもいかない」と言う。
・欠伸すれば傍らにゐる孫真似す欠伸といふは善なりや悪か・
上の句を読むと下の句に何がくるのだろうと思わせる。しかし下の句はただ事実を、しかも理屈を述べているだけで、象徴性も意味の深さもない。ああそうですか、である。佐太郎は「物足りない」と言う。
<作らなくてもいいような歌>
・とほき世のことといへども舜の妃が涙を垂れしたかむらあはれ・
中国古代の帝舜有虞氏の妃の故事の知識を詠んだものだけ。「ことといへども」がなんとも理屈っぽい。佐太郎は「閃きがない」と言う。
<理屈で面白くない歌>
・小さなる山家の中に住む吾はたまたま噦(しやくり)してゐたりける・
「噦」は「しやくり=しゃっくり」。それがどうした、ということである。
「徹底を欠く歌がある」いっぽうで「健康なときにくらべても遜色のない歌」もあるという。茂吉の晩年の歌は玉石混交である。
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ただこれらの「だんだん頭脳が働かなくな」った茂吉の歌をあげて、自分の将来と重ねていることが佐太郎らしい。
・われの目のうときこのごろ両足の爪を切るときその爪見えず(佐藤佐太郎)
これを自分の歌のなかで新しくもない歌という一方、
・杖ひきて日々遊歩道ゆきし人このごろ見ずと何時人は言ふ(佐藤佐太郎)
これを「まだ脳は衰えては居ない」という。佐藤佐太郎72歳のときである。そろそろ自分の老いを、ひしひしと感じはじめたのであろう。
人は必ず老いる。歌人とて例外ではない。そのときどうするかも、心得の一つと佐太郎は思っていたのだろう。