岩波文庫「斎藤茂吉歌集」153ページ・159ページ。
・政宗の追い腹きりし侍に少年らしきものは居らじか・(瑞巌寺)
・日は晴れて落葉のうへを照らしたる光寂(しづ)けし北国にして・(中尊寺行)
「石泉」所収。1931年(昭和6年)作。
この年、長兄・守谷広吉が没し、葬儀に参列するために茂吉は山形の実家に帰った。これが二首目だが、その他にたびたび仙台・石巻・塩釜・蔵王・出羽三山などを訪れている。50歳近くになっても茂吉はやはり「みちのくの農の子」(西郷信綱)だった。それ以前も「みちのく」は、10世紀の能因法師・12世紀の西行法師の旅・17世紀の芭蕉の「奥の細道」・19世紀の正岡子規の旅など、俳句や短歌にはゆかりが深い。
ところでこの「みちのく」の語源は「道の奥」だが、その入口は白河である。江戸時代の呼称で言えば奥州街道(奥州道中)の関所があった。現在でも東北本線・東北新幹線・東北自動車道・国道4号線(奥州街道)が通っている。
今度の「東北関東大震災」でさまざまな資料に目を通したが、東北へ行く交通の動脈がここに集中している。白河・郡山・二本松・福島など街道沿いに都市が連なっている。福島県の中でも「中通り」という。
東の阿武隈高地を越えると「浜通り」、西の安達太良山系を越えると「会津」である。福島県は南北に縦割りになっていることになる。そう言えば、同じ福島でも気風が違うとも聞いたこともある。
さてその「中通り」の交通が今回の震災では遮断された。東北本線は不通、東北自動車道は緊急車両以外は通行止め(3/19まで)、東北新幹線は不規則運転。
ガソリンなどの石油製品も実は陸路より仙台などの港への海路で運ばれていたのだということも改めてわかった。修復なった八戸・石巻が補給港として使われるという。これは江戸時代の「東廻り航路」そのままだ。
「浜通り」の国道は寸断され、「会津」の街道は険しい山越えである。会津街道はかの伊達政宗を斥けたほどで、現在でも冬期は通行止めになると聞いた。つまり陸路は「中通り」しかないのだ。その入口は今でも「白河の関」である。
しかし都合の悪いことに、福島第一原発の「原子力災害」が「浜通り」をさえぎり、「中通り」は屋内退避圏外にありながら、物流が滞っているという。「いわき市」は特に深刻だそうだ。(3/20現在)。福島第一原発は廃炉になるかどうかわからないが、この原発の事故(レベル6)が障害になっていることにまず間違いはない。
高速道路や新幹線・インターネットで頻繁に物や情報の流れが、あんなにも容易に閉ざされてしまった。
「みちのく」は現在でも「道の奥」なのだろうか。とにかく原発が事態を悪化させてしまっている。復旧に携わる人は命がけだろう。もともと「みちのく」への陸路の入口であるところに原発なんて作るべきではなかったのだとも思う。こういう事情は、若狭湾沿岸・新潟・女川などでも同じだと思うのだが、どうだろう。九州では原子炉停止点検中の原子力発電所の運転再開が延期されている。
(原発が廃炉となるまで何十年も冷却水を循環し続けなければならないというのは、どこかに無理がある気がしてならない。「軽水炉」という名前が似つかわしくないほどだ。冷却装置が3時間ほど止まっただけで危険な状態になるとは。)