「抒情詩の一態としての短歌は、その形態と伝統と歴史とに依る、無量のいのちと味ひとを持つてゐるものであって、実に不可思議なる小文学と謂ふことが出来る。」(斎藤茂吉「小歌論」)岩波文庫「斎藤茂吉歌集」261ページ。
「短歌は抒情詩であり、抒情詩は端的にいへば詩である。短歌の純粋性を追尋するのは、短歌の特殊性を強調するのではなくて、短歌の詩への純粋還帰を志向する。」(佐藤佐太郎「純粋短歌論」)
これは斎藤茂吉と佐藤佐太郎の短歌に対する考え方である。特に佐藤佐太郎の場合は「短歌的抒情」が排撃された時代だけに、「短歌的」という修飾語のつかない「抒情詩」であることを強調している。
さて短歌に対する考え方だが、さまざまな角度から様々な見解がある。主なものを挙げてみた。
1・短歌の調べ説:アララギ系の歌論はこれにあたる。正岡子規の「歌よみに与ふる書」、伊藤左千夫の「叫びと話」、島木赤彦の「短歌小見」、斎藤茂吉の「短歌に於ける写生の説」、佐藤佐太郎の「純粋短歌論」のいずれも、「歌の調子」「調べ」「声調」を歌論の柱のひとつにしている。作歌にあたっては「語感」「声調」にかなりの配慮をする。声調は表現の内容によりさまざまであるとする。
・「調にはなだらかなる調も有之、迫りたる調も有之候。平和な長閑な様を歌ふにはなだらかなる長き調を用ふべく、悲哀とか慷慨とかにて情の迫りたる時、又は天然にても人事にても景象の活動甚だしく変化の急なる時、之を迫りたる短き調を用ふべきは論ずる迄も無く候」(正岡子規)
・「我々の感動は、伸び伸びと働く場合、ゆるゆると働く場合、切迫して働く場合、沈潜して働く場合といふやうに、個々の感動に皆特色の調子があります。」(島木赤彦)、「次いで調べはその国語のゆるす限り内容に応じて千変万化せざるべからず。内容及び形式の統一即ちこれなり。」(斎藤茂吉)
・「言葉は意味の要素をぬきにして単に音の要素のみを以て考へることは出来ない。・・・歌の声調は意味・内容の要素をも籠めて、一首全体として受取られるべきものである。」(佐藤佐太郎)
このように「短歌調べの説」は、一首の内容と声調を一体不可分のものと考えるが、伊藤左千夫だけは「もし分離したら調子をとる」と考える。
2・短歌の響き説:「心の花」の佐佐木幸綱の説。短歌は5・7・5・7・7の箱に言葉を入れて行き、それぞれの言葉のぶつかりあいが詩としてのリズムを作り出すというもの。
3・短歌=日本語の底荷説:日本語の中での短歌の役割について、上田三四二が唱えた説。
「短歌は散文と違って日本語の主流にはなtらないが、日本語全体を支える底荷(船の転覆を防ぐために空船の船倉のいちばん底に重石として置かれている荷物)のはたらきをする」とする考え。上田自身は佐藤佐太郎に私淑していた。
4・短歌=韻文の極致説:岡井隆の説。
「短歌は韻文のなかでいちばん短い」という意味。俳句と短歌の関係については次のように述べる。
「俳句は和歌の調べを捨て言葉の意味をとった。俳句は鞭のように、短歌は小鳥を包むように言葉を使う。この俳句の方法を短歌の方に回収できないだろうか。」
どれが正しいという話ではない。自分以外の考え方を持つ作者の作品を読むとき、こういった様々な説があると知った上で読むのは有益だし、自分の短歌の幅を広げるのにも道を開くのではないだろうか。