運河の会 かながわサロン 2016年9月 於)戸塚フォーラム
運河の会 かながわサロンは僕が「運河の会」に入会して最初にもまれた歌会だ。出詠がおくれて僕は自作の作品を短冊状の紙に書いて参加した。比喩を利用した日常詠、心理詠の2首。
ほかに出詠されたものは叙景歌、心理詠、と多彩だったが、いつものように忌憚なき批評がなされた。
焦点が絞れていない、二つの時間を入れずに瞬間を切り取れ、語順に工夫の余地がある、言葉が重複している、余剰な言葉がある、表現が平凡、など。「運河の会」「星座の会」どこでも指摘されることだが、自分の作品として仕上げるときはなかなか難しい。
僕の作品について批判があった。フィクションが見え見えで心がこもっていないのではないか。これはある歌人からもらった手紙にも書かれていた。
「君の歌集にはいくつフィクションが入っているのか。」
この類の批判は馬鹿馬鹿しい。佐藤佐太郎の歌論を読んだことがあるのか。佐太郎の歌にはフィクションが多く含まれている。
佐太郎の弟子で「運河の会」創設の同人。田中子之吉氏はモンタージュ技法を使った。二つの場面をつなぎあえあせるのだ。田中の弟子、星座の選者の藤岡きぬよ氏は「そんなことは『運河の会』千葉歌会で散々言われたそうだ。
さらに「詩人の聲」の32回公演では、『聲の力』の全作品を聲に出した。そこで確認したのは、全400首が、56年生きてきてその過程で感じ経験した体験に基づいている。
つまりこういった批判は二重の意味で間違っているのだ。翌日の「星座α」の歌会で批判の内容を尾崎主筆に相談したところ、「その批判は問題にならない。フィクションが入っていけないことはない。」という言葉だった。
そろそろ一つ決断をする時期にさしかかっているようだ。