・うねりつつ水のひびきの聞こえくる北上川を見おろすわれは・
「石泉」所収(中尊寺行)。1931年(昭和6年)作。岩波文庫「斎藤茂吉歌集」156ページ。
茂吉の自註がある。
「兄の葬儀を済ませて、それから、鳴子、中尊寺、石巻、松島、塩釜、仙台に旅して帰った。・・・中尊寺、北上川もはじめての旅だから、これも感動が深かった。私はキタカミガハといふ音に久しいあひだ憧れてゐたが、今度その心を満たすことが出来た。」(作歌四十年」)
佐藤佐太郎著「茂吉秀歌・上」、長沢一作著「斎藤茂吉の秀歌」では扱われていない。
塚本邦雄著「茂吉秀歌・つゆじも~石泉・百首」では、この作品に直接触れていないものの、旅の背景を次のように述べる。
「芭蕉は松島から平泉に廻り、後に尿前(しとまへ)の関、尾花沢の順に巡った。・・・茂吉の旅は芭蕉の逆をたどってゐる。鳴子にさしかかる前にも、彼は< 奥の細道 >を回想する。」
茂吉の憧れが北上川だけでなく「みちのく」にあったのは確かだろう。茂吉は東北生まれだが山形県であり、陸奥国ではなく出羽国に近い。幼いころ病気になると母に手を引かれて山を越え、仙台の病院に行ったという。おそらくそれら一切をはらんだ憧れだったのだろう。
芭蕉のことが意識されているが、この道は能因法師・西行・芭蕉・正岡子規と俳句・短歌といった短詩形文学にはゆかりが深い。まして中尊寺のある平泉は、北上川の支流・衣川の南に位置し、歴史的には「蝦夷(えみし)」の地の外側、奥州藤原氏の陸奥国一円の単一支配の象徴だった。まさに「兵(つはもの)どもが夢の跡」の地である。
上の句の「うねりつつ水のひびきの聞こえ来る」の「うねり」は実景であるとともに、そういった「歴史のうねり」をも感じさせる。「北上川」も詩歌にたびたび登場するように、独特の情緒を持つ。その情緒が「きたかみがは」の音からもうかがえる。
交通がいまほど便利でなかった昭和初年の茂吉にとっては、貴重な体験だったに違いない。ちなみに北上川流域は江戸時代初期までは、農業・畜産を中心とする生産の中心地域だった。