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書評『寺山修司歌集』  国文社刊

2015年01月05日 23時59分59秒 | 書評(文学)
書評『寺山修司歌集』 国文社刊 (現代歌人文庫)


 ある人が言う「寺山修司の作品は言葉遊びだ」。また別の人が言う「寺山修司程、言葉のやり繰りが上手い歌人はいない」。また穂村弘が言う「前衛短歌の使命を継いでいるのは、ライトバース、ニューウェーヴ短歌だ」。

 もし前衛短歌が「言葉遊び」なら、穂村弘の発言に間違いはない。しかしすでに岡井隆、塚本邦雄を、検討した通り、前衛短歌は「言葉遊び」ではない。そう言うのは、前衛短歌を、言葉遣いの問題から見た一面的な物言いだ。


 寺山修司の作品のモチーフは、いくつかに分けられる。「青春」「社会」「母」「父」「故郷と家」がそれである。

1、青春

・海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり

・一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき

・言い負けて風の又三郎たらむ希いをもてり海青き日は


2、社会

・マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

・アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちていむ

・たそがれのガスが焔となるつかのま党員よりもわが唾液濃き

3、母

・起重機に吊らるるものが遠く見る青春不在なりしわが母

・冬海に横向きにあるオートバイ母よりちかき人ふいに欲し

・亡き母の位牌の裏のわが指紋さみしくほぐれゆく夜ならむ

4、父

・向日葵は枯れつつ花をささげおり父の墓標はわれより低し

・悪霊となりたる父の来む夜か馬鈴薯くさりつつ芽ぐむ冬

5、故郷・家

・幻の小作争議もふいに消え陽があつまれる納屋の片すみ

・冬の斧たてかけてある壁にさし陽は強まれり家継ぐべしや

 見て分かるように、5つのモチーフはしばしば重なる。父は不幸な死を迎え、母は作者との葛藤をかかえたまま亡くなった。残った作者は家を継ぐべき立場にありながら躊躇っている。家、故郷が作者の生きようの桎梏となっているのを思わせる。

 そこで出て来るのが、社会への眼差しであり、そういう桎梏を破ろうとする青春のエネルギーである。ここでの党とは、「アカハタ」とあるからは日本共産党だ。その党も作者には、違和感の残る存在。だから桎梏を破るのは、自分自身しかない。

 こういう構図が描けそうだ。作品の内容が事実とすればだ。そう考えると、寺山修司の作品は極めて強い「私性」と「党派性」とを持っている。

 いまでは寺山の作品は多くのフィクションがあるのが判明している。しかしフィクションを駆使しても、寺山が表現したかったものは、鮮明に見えてくる。

 まさに前衛短歌と呼ぶに相応しい。


まとめ。寺山修司の短歌は過剰なまでの「私性」「党派性」「伝統や権威の否定」を含んでいる。そしてそれを表現するのに、短歌にフィクションを使った。歌壇ではそれが問題視されたが、作品の完成度が高く、今では違和感は全くない。


それはモチーフと主題が明確だからだ。そして暗喩が大きな効果を果している。この修辞法の巧みさは、俳句で鍛えられた感性によるものだろう。


やがて寺山は短歌から演劇へ転ずる。短歌における自己劇化に、限界を感じたのだろうか。


塚本邦雄、岡井隆、寺山修司の三人の前衛歌人の中で、作品でドラマを構成するのに最も優れた創作者であったと言えるだろう。




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